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ジョン・W・スティーブンソン : ミニ英和和英辞書
ジョン・W・スティーブンソン[じょんだぶりゅーすてぃーぶんそん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ジョン・W・スティーブンソン : ウィキペディア日本語版
ジョン・W・スティーブンソン[じょんだぶりゅーすてぃーぶんそん]

ジョン・ホワイト・スティーブンソン(、1812年5月4日 - 1886年8月10日)は、19世紀アメリカ合衆国政治家弁護士であり、第25代ケンタッキー州知事を務めた。またケンタッキー州選出のアメリカ合衆国議会両院の議員も務めた。父はアメリカ合衆国下院議長を務め、外交官でもあったアンドリュー・スティーブンソンだった。1832年にバージニア大学を卒業し、従兄弟であるウィロビー・ニュートン(アメリカ合衆国下院議員)の下で法律を学んだ。ミシシッピ州で短期間法律実務を行った後、ケンタッキー州コビントンに移り、郡検察官に選出された。ケンタッキー州議会下院議員を務めた後、1849年には州の第3回憲法制定会議代議員に選ばれ、法典を改定する3人の委員の1人になり、その任務を1854年に終えた。民主党員としてアメリカ合衆国下院議員に2期連続で選ばれ、このとき南北戦争を回避するための妥協案幾つかを支持し、それが失敗したことについて急進派共和党を攻撃した。
1861年、下院議員の再選に失敗した後、アメリカ連合国の同調者だったスティーブンソンは、戦争の間には公的生活から離れていた。他の多くの南軍同調者が投獄されたが、スティーブンソンは免れることができた。1867年、ジョン・L・ヘルムが州知事に、スティーブンソンが副知事に選ばれて5日後、ヘルムが死に、スティーブンソンが知事代行になった。スティーブンソンは1868年にあった特別選挙でも勝利し、ヘルムの残された任期を全うした。知事としてのスティーブンソンは、州の事情と考えることに連邦政府が干渉するのに反対したが、黒人に新しく与えられた権利は守られるべきであるとし、州内で起きた戦後の暴力沙汰は民兵を動員して鎮めた。財政的には保守的だったが、教育に資する新税を提案し、州の教育局を新設した。
1871年、アメリカ合衆国上院議員選挙で、現職のトマス・マクリアリーが、ケンタッキー州民の大半に憎まれているスティーブン・G・バーブリッジを連邦政府の役職に指名されるのを支持したと批判した後で、マクリアリーを破って当選した。上院では、内国改良に反対し、アメリカ合衆国憲法の厳格な解釈を行う者達を擁護した。憲法で認められている権限を拡大しようという動きに抵抗した。1873年後半からは、上院民主党議員団の初代会長(後に院内総務と呼ばれた)を務めた。1877年の任期あけには再選を求めず、法律実務に戻って、ウィリアム・ゴーベル(後のケンタッキー州知事)との共同経営を始めた。1880年民主党全国大会では議長を務め、1884年にはアメリカ法曹協会会長に選ばれた。1886年8月10日、スティーブンソンは死に、オハイオ州シンシナティのスプリンググローブ墓地に埋葬された。
== 初期の経歴と家族 ==
ジョン・ホワイト・スティーブンソンは1812年5月4日にバージニア州リッチモンドで生まれた。父はアンドリュー・スティーブンソン、母はペイジ(旧姓ホワイト)であり、その唯一の子供だった。母はアメリカ独立宣言に署名したカーター・ブラクストンの孫だった。母はスティーブンソンが子供の時に死んだ。母方の祖父母、ジョンとジュディスのホワイト夫妻の元に送られ、11歳まで過ごした。その間に父は再婚した。父はバージニア州の著名な弁護士であり、スティーブンソンがまだ子供の間に政界でも名を成すに至った。アメリカ合衆国下院議員に選ばれ、後には同議長を務め、さらに後にはマーティン・ヴァン・ビューレン大統領からセントジェイムズ宮廷特命全権公使(現在の駐英アメリカ合衆国大使)に指名された。この職にあるときに、奴隷制度擁護の立場から多くの議論に巻き込まれることになった。父がそういう地位にあったので、少年のスティーブンソンはトーマス・ジェファーソンジェームズ・マディソンと会ったことがあった。
スティーブンソンはバージニア州とワシントンD.C.で個人家庭教師に教育を受けた。父が議員を務めていたのでワシントンD.C.に住む機会が多かった。1828年、14歳でハンプデン・シドニー・アカデミー(現在のハンプデン・シドニー・カレッジ)に入学した。2年後にはバージニア大学に転入し、1832年に卒業した。卒業後は従兄弟のウィロビー・ニュートンと共に法律を勉強した。ニュートンは後にアメリカ合衆国下院議員を務めた。1839年、スティーブンソンはバージニア州で法廷弁護士として認められた。
スティーブンソンはマディソンの助言に従って、西部に入植することにした。馬で西部のフロンティアを抜けてミシシッピ川に達し、ヴィックスバーグに入った。当時のヴィックスバーグは小さな開拓地であり、満足できるような量の仕事は得られなかったので、1840年にケンタッキー州コビントンまで戻ることにし、1841年にそこを恒久的な居所とした。コビントンでは、地域の尊敬される弁護士ジェファーソン・フェルプスと共同で法律事務所を始めた。この共同事業はフェルプスが死んだ1843年まで続いた。
スティーブンソンは敬虔な米国聖公会員であり、宗派の会議に出席することも多かった。1842年11月24日にはコビントンでトリニティ・エピスコパル教会の教区役員に選ばれた。1843年、スティーブンソンはケンタッキー州ニューポート出身のシベラ・ウィンストンと結婚した。この夫妻には5人の子供が生まれた。すなわち、サリー・C・コルストン、メアリー・W・コルストン、ジュディス・W・ウィンスロー、サミュエル・W・スティーブンソン、ジョン・W・スティーブンソンだった〔Morton gives both Mary and John Stevenson's middle initials as "D." instead of "W." She also omits Samuel W. Stevenson from the list of children, including instead Andrew Stevenson of Philadelphia, Pennsylvania. She later writes that Stevenson was survived by six children, despite having previously listed only five names. Vaux (p. 14) lists sons Andrew and John, although he states that Andrew lives in Montana. Vaux also mentions three unnamed daughters.〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ジョン・W・スティーブンソン」の詳細全文を読む




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