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ジョン・Y・ブラウン・ジュニア : ミニ英和和英辞書
ジョン・Y・ブラウン・ジュニア[じょんわいぶらうんじゅにあ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

ジュニア : [じゅにあ]
 【名詞】 1. junior 2. (n) junior

ジョン・Y・ブラウン・ジュニア : ウィキペディア日本語版
ジョン・Y・ブラウン・ジュニア[じょんわいぶらうんじゅにあ]

ジョン・ヤング・ブラウン・ジュニア(、1933年12月28日 - )は、アメリカ合衆国政治家起業家実業家である。1979年から1983年に第55代ケンタッキー州知事を務めたが、そのことよりも、ケンタッキー・フライド・チキンを世界的なレストランチェーンに育てたことで知られている。ブラウンは現在独身であるが、過去に三度結婚しており、2度目の妻はミス・アメリカのフィリス・ジョージだった。子供の中にはニューズ・アンカーのパメラ・アシュレー・ブラウンや、元ケンタッキー州務長官のジョン・ヤング・ブラウン3世がいる。
アメリカ合衆国下院議員の息子として、事業に才能があることは大学時代に明らかになり、ブリタニカ百科事典のセットを販売して多額の資金を作った。父とともに短期間法律実務を行った後の1964年、ケンタッキー・フライド・チキンを設立者のハーランド・サンダースから購入した。ブラウンはこの会社を世界的な成功に導き、1971年に会社の持ち分を売って莫大な利益を得た。続いて幾つかのレストラン事業に投資したが、ケンタッキー・フライド・チキンほどの成功は収められなかった。1970年代、様々なタイミングで、3つのバスケットボール・チームを所有した。アメリカン・バスケットボール・アソシエーションケンタッキー・カーネルズナショナル・バスケットボール・アソシエーションボストン・セルティックスとバッファロー・ブレーブス(現在のロサンゼルス・クリッパーズ)である。
ブラウンは若い時に政治にはほとんど関心を示していなかったが、1979年にケンタッキー州知事選挙に出馬すると表明して、政治評論家を驚かせた。ケンタッキー州もアメリカ合衆国も経済的に難しい時代にあり、ブラウンは州政府を企業のように運営すると約束した。私財を投じて強力なメディアを使った選挙運動により、民主党予備選挙に勝利し、本選挙では共和党の対抗馬、元知事のルーイー・ナンを破って知事に当選した。すでに実績ある政治指導者から特に恩恵を受けずに当選したので、多くの成功した実業家を州の要職に指名し、政治的な人事は行わなかった。選挙戦中に多様な人事を行うと公約していたので、その内閣には女性1人とアフリカ系アメリカ人1人を入れた。知事の任期の間、それまでの知事よりも議会に対してあまり影響力を行使しておらず、むしろ州を離れることが多く、任期の4分の1以上は副知事のマーサ・レイン・コリンズに知事代行をさせた。知事を退任した後の一時期、アメリカ合衆国上院議員選挙への出馬を考えたが、健康問題を理由に僅か3週間で撤退した。事業への投資は続けており、その中でも著名なのが、カントリー・ミュージックのスター、ケニー・ロジャースと共に設立した、薪を使ったローストチキンのレストラン、ケニー・ロジャース・ロースターズである。
== 初期の経歴 ==
ジョン・ヤング・ブラウン・ジュニアは1933年12月28日に、ケンタッキー州レキシントンで生まれた〔"Kentucky Governor John Y. Brown, Jr.". National Governors Association〕。父はジョン・ヤング・ブラウン・シニア、母はドロシー(旧姓インマン)であり、その5人の子供では唯一の男の子だった〔Demaret, "Kissin', but Not Cousins, John Y. and Phyllis George Aim to Do Kentucky Up Brown"〕。父はケンタッキー州選出のアメリカ合衆国下院議員であり、ケンタッキー州議会議員は30年間近く務めており、その間に下院議長も務めた。父の名前は同名の第31代州知事ジョン・Y・ブラウンから採られたが、親戚ではなかった〔Harrison in ''A New History of Kentucky'', p. 373〕。1979年の雑誌「ピープル」では、父が州知事やアメリカ合衆国上院議員など9回の選挙にでて落選を続けたことが、家族にとって大きな負担となり、その妻は選挙に使われた金のことで不満に感じていたという記事を載せた〔。
ブラウンはレキシントンのラファイエット高校に入学し、様々なスポーツで17回「レターマン」(優秀選手)を取った〔〔Berman, p. B1〕。ある年の夏、ブラウンがフットボール・チームの仲間とと共に道路工事に加わらず、電気掃除機を売ることで夏を費やすことに決めたために、父が失望を表明した〔。父の失望でかえって動機付けられたブラウンは電気掃除機販売で毎月平均1,000ドルの手数料を得た〔。高校を卒業した後はケンタッキー大学に入学し、1957年に学士号を、1960年に法学士号を取得した〔〔Harrison in ''The Kentucky Encyclopedia'', p. 130〕。法学校に通う間にブリタニカ百科事典のセットを売り、年間25,000ドルの利益を上げ、さらに級友を販売部隊に雇って利益を増した〔。
ブラウンは法学士を得たあとは父の法律実務に加わった〔。1959年から1965年、アメリカ陸軍予備役にも務めた〔〔。1963年のNFLシーズンで、トップスターのポール・ホーナングがギャンブルで出場停止になった時にその法律顧問を務めた〔Golden, "Brown Yearns for Old Kentucky Home"〕。父の会社も数年後には離れ、実業家の道を進み始めた〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ジョン・Y・ブラウン・ジュニア」の詳細全文を読む




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