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ジョン・エンデコット(、''Endicott''とも綴る、1601年以前 - 1664/5年3月15日〔)は、イングランド植民地の政治家、軍人であり、マサチューセッツ湾植民地初代総督を務めた。植民地に移ってからほとんどの時期を何らかの形態で政治、司法、軍隊の高官を務めた。総督としては合計で16年間務めており、特に晩年の15年間の大半を捧げることになった。この在任期間はイングランドの植民地総督としては最長になった。ニューイングランド連合の一部として植民地を代表する重要な地位にも就き、またセイラムなどエセックス郡内開拓地各所の拡張の強力な推進者となった。 エンデコットは熱心でいくらか性急なピューリタンであり、イングランド国教会に対しては分離派の姿勢を採った。このことで、当時の初期植民地指導者達には支配的だった非国教徒的見解と対立することもあった。それは声高な分離主義者ロジャー・ウィリアムズを匿ったときに明らかとなった。エンデコットは、女性は質素な衣服を纏うべきであり、男性はその髪を短くしておくべきとも論じており、ピューリタンの宗教観に合わない宗教的見解を持つ人を追放する司法判断を行った。聖ゲオルギウス十字をローマ教皇の象徴だと見なしたのでイングランドの国旗をけなし、追放後に植民地に戻ってきたクエーカー教徒4人を死刑にした。1636年にエンデコットが率いた遠征隊はピクォート戦争での攻勢を始めた機会だと見なされ、ピクォート族の全体を事実上破壊することになった。 エンデコットはその資産の幾らかを果樹を普及させるために遣った。エンデコットが植えた梨の木が今もダンバースに残っている。植民地で鉱業を発展させる最初期の試みに関わってもおり、その所有地で銅鉱石が発見された。その名前がウィニペソーキー湖(ニューハンプシャー州)の岩に残されており、1652年にマサチューセッツ湾植民地の北境界を識別するために派遣された測量士が彫ったものだった。エンデコットの名前が残された場所や施設があり、また著名な子孫も出ている。 == 伝記 == ジョン・エンデコットの出自について、これまで知られていることの大半は状況的なものばかりである。19世紀の伝記作者は、イングランドのドーセットの州都ドーチェスターの出身だと考えている。これはそこの出身者と重要な親交があったためだった〔Endicott, p. 11〕。20世紀初期の歴史家ローパー・レスブリッジは、エンデコットが1588年頃に、デヴォンのチャグフォードで生まれたと提案した〔。この提案に基づき、チャグフォードにはエンデコットの名前を付けた当時からの家屋がある。しかし、ニューイングランド歴史家系協会によるさらに最近の研究では、レスブリッジの主張に問題を見い出し、論議を続けている〔Anderson, p. 2:644〕。その研究に拠れば、エンデコットはチャグフォードであるいはその近くで生まれたかもしれないが、それについて確かな証拠がなく、その両親を識別する証拠もないとしている。入手できた証拠に基づき、おそらく1600年には生まれていたと結論付けた〔。17世紀初期にはジョン・エンデコットという男性がデヴォンで活動していたが、本稿のエンデコットと結び付けられる確たる証拠は無い〔Mayo, pp. 6–7〕。法律家エドワード・コーク卿と知り合いとなり、このコネを通じてロジャー・ウィリアムズと知り合いになった可能性がある〔Mayo, p. 4〕。 1620年代に植民地化の動きと関わる以前のエンデコットの人生についてもほとんど分かっていない。高い教養があり、フランス語を話せた〔。植民地初期の文書では「エンデコット大尉」と呼んでおり、軍人の経験があったことを示している。また別の記録では医療の訓練を受けていたことを示唆している〔Endicott, p. 12〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ジョン・エンデコット」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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