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ジョン・ホワイト・ギアリー(英:John White Geary、1819年12月30日 - 1873年2月8日)は、アメリカ合衆国の弁護士、政治家であり、南北戦争のときは北軍の将軍だった。カリフォルニア州サンフランシスコの最後のアルカルデ〔スペイン語で市長。カリフォルニアが州になる前の職制〕かつ初代市長となり、その後カンザス準州とペンシルベニア州の知事を務めた。 == 初期の経歴 == ギアリーはペンシルベニア州ウェストモアランド郡のマウント・プレザント近くで、鉄器製造業者かつ校長のリチャード・ギアリーとメリーランド州出身のマーガレット・ホワイトの夫妻の息子として生まれた。14歳の時からキャノンズバーグのジェファーソン大学に通い、土木工学と法律を勉強したが、その父の死去のために卒業前に退学を強いられ、父の負債も引き継いだ。その後ケンタッキー州の測量士や土地投機家など様々な職業を経験し、学資を稼いで大学に戻り、1841年に卒業した。アレゲニー・ポーテイジ鉄道で建設技師として働いた。1843年、マーガレット・アン・ローガンと結婚し、夫妻には数人の息子が生まれたが、マーガレットは1853年に死んだ。ギアリーはその後1858年にペンシルベニア州カーライルで未亡人だったメアリー・チャーチ・ヘンダーソンと再婚した。 ギアリーは10代のときから州民兵隊で活動し、米墨戦争が始まった時は第2ペンシルベニア歩兵連隊に入隊して中佐を務めた。チャプルテペクの戦いで英雄的にその連隊を率い、その過程で5度負傷した。ギアリーは敵の銃撃の格好の目標にされた。当時としては体格が大きく、身長は6フィート6インチ (198 cm)、体重は260ポンド (118 kg) あり、がっしりした体つきだった。その軍歴の中では少なくとも10回は負傷した。ベレンゲイトでの功績で大佐に昇進し、戦争の英雄として故郷に帰った。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ジョン・ギアリー」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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