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ジョン・スミス・サッチ(John Smith Thach、1905年4月19日 - 1981年4月15日)はアメリカ海軍の軍人、最終階級は大将、愛称はジミー・サッチ。太平洋戦争の戦闘機パイロットとして活躍、対ゼロ戦空戦戦術「サッチウィーブ」の考案者として知られている。 ==経歴== サッチは1905年4月19日にアメリカ合衆国アーカンソー州パインブラフにて生まれた。 1927年アナポリス(アメリカ海軍兵学校)を卒業、2年ほどは戦艦乗組みであったが1929年にペンサコーラ飛行学校に入り飛行機乗りとなる。1930年にはパイロットとして活躍し、いくつかの任務の後テストパイロットと飛行学校の教官として過ごす。教え子の中には後にサッチのウイングマンとなるエドワード・オヘアがいた。 少佐に昇進し、VF-3の指揮官となった後、1941年にサンディエゴ基地で部下の訓練の後、艦隊演習の為ウィリアム・F・ハルゼー中将指揮下の空母「エンタープライズ」乗組みを命じられた。しかし、サッチはハルゼー提督に艦隊演習よりも飛行訓練をやりたいと直訴、ハルゼー提督はサッチの言を容れ、演習参加途中でオアフ島に引き返させた。猛訓練の後空母「レキシントン」の飛行隊長となり、ここで太平洋戦争を迎えた。 珊瑚海海戦に参加したが同海戦で母艦「レキシントン」は爆沈、残存機を率いて「ヨークタウン」に乗組む。真珠湾に帰港後すぐにミッドウェー海戦への参加を命じられる。この時「ヨークタウン」は超突貫応急修理のボロ船、飛行隊も「レキシントン」「ヨークタウン」の艦載機に一部に「サラトガ」の飛行隊を受け入れ、実に元3隻の飛行隊員の混成寄り合い所帯となったが、南雲機動部隊を急襲、艦爆隊が空母「蒼龍」を撃沈した。 ミッドウェー海戦の後は教官として戦闘機乗りを育成し、ジョン・S・マケイン中将が空母部隊の司令官となると中佐、航空参謀として赴任した。レイテ沖海戦では大佐、アーレイ・A・バーク代将の補佐を務める。小沢治三郎中将率いる機動部隊への攻撃についてハルゼー大将の方針に全面的に賛成した。戦後これが囮であったことを知った後でもこの部隊を追いかけるべきだとのコメントを残している。 1945年9月2日の戦艦ミズーリ上で行われた日本降伏文書調印式に、マケイン提督の随員として参加している。朝鮮戦争では護衛空母「シシリー」(CVE-118)の艦長を務め、後に空母「フランクリン・D・ルーズベルト」(CVA-42)艦長となった。1955年に少将に昇進。 1958年から1959年には対潜水艦部隊(ASW)司令官となり、旗艦を空母「ヴァリーフォージ」(CVS-45)に置いて冷戦の主要な焦点であるミサイル原潜対策に従事した。1960年に中将に昇進、海軍作戦部次長となるとA-7コルセアII攻撃機の開発に携わった。1965年には大将に昇進し、海軍ヨーロッパ方面軍司令官に赴任、1967年5月に退役するまでその任に就いた。 1981年4月15日に76歳の誕生日を目前にして死去、75歳だった。死後アメリカ海軍は1982年12月18日に進水したオリバー・ハザード・ペリー級ミサイルフリゲート34番艦に彼の名を冠して生前の功績に報いた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ジョン・サッチ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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