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ジョン・シドニー・マケイン・シニア (John Sidney McCain, Sr., 1884年8月9日 - 1945年9月6日) は、アメリカ海軍の軍人。最終階級は大将。第二次世界大戦中の高速空母機動部隊指揮官として知られる。 彼の同名の息子ジョン・S・マケイン・ジュニアもアメリカ海軍の提督であった。孫のジョン・マケイン三世は海軍士官でありアリゾナ州選出の上院議員(共和党)、2008年の大統領選挙の有力候補者であった。 ==生涯== ===青年期=== マケインはミシシッピ州キャロル郡でプランテーションを経営するジョン・シドニー・マケイン(1851年 - 1934年)とエリザベス・アン・ヤング(1855年 - 1922年)の息子として生まれた。 マケインはミシシッピ大学に2年間通い、在学中にに所属。卒業後、マケインは兄ウィリアム・アレクサンダー・マケインが在学していた陸軍士官学校(ウェストポイント)への進学を志し、入試勉強まで行っていたが、後に志望を海軍兵学校(アナポリス)に変えた。アナポリスでのマケインは成績が振るわなかったばかりか、難聴で年一度の身体検査にも合格しなかったが、その他の面でそれなりの見所があったので不問に付された。マケインは1906年にアナポリスを卒業し、成績は116名中79位だった。年鑑において、マケインは「骸骨のような奴」などというレッテルを貼られた。 このアナポリス1906年組の主な同期にはロバート・L・ゴームレー(12位)〔ガダルカナル島上陸以後のソロモン諸島の初期の戦いを指揮。戦意不足を理由に解任される。谷光『米軍提督と太平洋戦争』235ページ〕、フランク・J・フレッチャー(26位)、(31位)〔アメリカ海軍航空部隊のドンの一人で、パイロット出身の提督第一号。旺盛な野心がキングに忌避され、実戦を戦うことはなかった。谷光『米軍提督と太平洋戦争』212、213ページ〕、ミロ・F・ドラエメル(34位)〔ニミッツ時代の太平洋艦隊の初代参謀長(1942年5月まで)。谷光『米軍提督と太平洋戦争』553ページ〕、オーブリー・フィッチ(順位不詳)〔マケインの後任の海軍作戦部航空部長。谷光『米軍提督と太平洋戦争』478ページ〕がいる〔参考までに、一期上の1905年組にはニミッツが、一期下の1907年組にはスプルーアンスがいる。また、1906年組は江田島の卒業年次に換算すると34期に相当し、古賀峯一はマケインと同期となる。谷光『米軍提督と太平洋戦争』序ページ〕。 1909年8月9日、マケインは8歳年上のキャサリン・デービィ・ヴァルーと結婚した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ジョン・S・マケイン・シニア」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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