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ジョン・テンボ(John Zenus Ungapake Tembo、1932年9月14日 - )〔"Profile: John Tembo, presidential candidate of opposition Malawi Congress Party" , Xinhuanet,2010/2/2.〕は、マラウイの政界における最大野党、マラウイ会議党 (MCP) の党首である。中部州のデッザ県出身で、政界入りする前の職は学校教員であった〔。 テンボは1964年から1994年までのヘイスティングズ・カムズ・バンダ大統領による統治時代に唯一の合法政党であったマラウイ会議党における主要人物の1人であり、"禁欲的、潔癖"や"狡猾"など様々な表現で評される人物である〔Malawian historian David Dudwa Phiri〕。 == 初期の経歴 == 1932年、テンボは中部州のデッザ県に生まれた。父親のゼナス・テンボ(Zenus Ungapake Tembo)は、中央アフリカ長老派教会(Church of Central Africa Presbyterian:CCAP)の牧師であった。ブランタイヤのセカンダリースクールを卒業した後にレソトのローマ大学へ進学し、1958年に政治哲学の学士号を取得した。大学卒業後、テンボは中部州のデッザ県のセカンダリースクールの教員として就職したが、その後すぐにドーワ県のロバート・ブレイクセカンダリースクール(Robert Blake Secondary School)へと移った。 なお、この1958年はガーナで診療所を開設していたヘイスティングズ・カムズ・バンダが帰国した年であった。バンダは、帰国後すぐにニヤサランドアフリカ人会議(Nyasaland African Congress、NAC)の指導者となったが、翌年1959年に政治活動により逮捕された。ニヤサランドアフリカ人会議も崩壊の危機に瀕したものの、逮捕を逃れたメンバーにより、マラウイ会議党として再建された。翌1960年、バンダは出所するとマラウイ会議党の指導者に就任し、イギリス植民地からの独立運動へ再び熱心に取り組んでいた。テンボはこのマラウイ会議党に請われ、1961年に行われる予定であった立法議会の候補者としてデッザ県南部選挙区の候補として出馬することとなった。 翌年に行われた1961年ニヤサランド立法議会選挙でテンボは当選し、マラウイ会議党の議員となった。それから3年後の1964年、マラウイはイギリスからの独立を勝ち取った。テンボは、財務相の最有力候補であったチシザ(:en:Dunduzu Chisiza)が、1962年に自動車事故で死亡したために、ヘンリー・フィリップス(:en:Sir Henry Phillips)の後任として、第二財務大臣に就任した。同年には悪名高き"内閣危機"が発生する。これは、バンダと対立した3人の閣僚が更迭され、これに同情的であったもう3人の閣僚が辞任となった上、内の5人が生命の危険から亡命に至った事件であった。テンボはこの事件の際、唯一辞任へと至らなかった閣僚となった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ジョン・テンボ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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