|
ジョン・ハウスマン(John Houseman, 1902年9月22日 - 1988年10月31日)は、ルーマニア生まれの俳優である。 == 来歴 == 俳優、映画プロデューサーとして活躍したほか、数多くのハリウッド俳優たちから「師」と未だ仰がれ続けるハウスマンは、1902年にルーマニアのブカレストに生まれる。母親はアイルランド人とウェールズ人の祖先を持つイギリス系で、父親はユダヤ系の家庭で育つ。後にイングランド南西部にあるクリフトン・カレッジ へ進学すると、英国市民権を獲得。1925年には渡米し、芸能関係のキャリアをスタートさせる。さらに芸名にはそれまで名乗っていた“Jacques Haussmann”の本名ではなく、“John Houseman”に改名。後にオーソン・ウェルズと出会ったハウスマンは、ブロードウェイへ進出していくつもの舞台をプロデュース。 1934年、1929年に起こったウォール街大暴落の影響で世間は世界恐慌にあえぐ時代であり、演劇界もその余波を浴びざるを得ない状況の最中、ハウスマンはたまたまキャスティングで役者候補を探している時に、後の盟友となるオーソン・ウェルズと出会う。1935年、大不況で困窮に陥る演劇人を救済する政策である連邦劇場計画(FTP)が開始され、ハウスマンとウェルズはアフリカ系アメリカ人の俳優やスタッフたちと演劇活動に励んだ。その甲斐もあり、同年に公演されたウェルズ演出、ハウスマンがプロデュースの『マクベス』は多くの観客を魅了した。 その後もいくつかのプロジェクトを得て、1937年にハウスマンらは劇作家のマーク・ブリッツスタインが脚本・作曲、オーソン・ウェルズが演出で労働者たちの反乱を描いたミュージカル『ゆりかごは揺れる (別題:クレイドル・ウィル・ロック)』の製作に着手。しかし労働組合側に立ったストーリー内容にFTP側が検閲を実施して「予算削減」を理由に製作中止を申し入れられてしまう。だがハウスマンらは、それでも公演を諦めずにとっさの処置を敢行。当時公演が行われる予定だった劇場の前に立ち、チケットを持ってやってきた観客たちを別の劇場へ誘導してブリッツスタイン一人がステージ上に立ち、ピアノを弾きながら楽曲を唄うという強硬手段に出る。すると観客席にいた役者(もともとその舞台に出演するはずだったが舞台に立つことを禁止された役者たち)が一人、また一人と観客席で歌い出し、ステージ上のブリッツスタインと観客席の役者たちで演劇が実行された。その上演を鑑賞していた観客たちからは大喝さいが起こり、演目は大成功を収める。その事は演劇界の“伝説”となっており、ティム・ロビンスが監督で『クレイドル・ウィル・ロック』という映画も製作されている。 『ゆりかごは揺れる』で大成功を収めたハウスマンとウェルズは、演劇人として立派な地位を確立したほか、「マーキュリー劇場」を設立。そこではウェルズが演出での『ジュリアス・シーザー』や『三人姉妹』や『ベガーズ・オペラ』、その他のシェイクスピアの戯曲が公演された。ちなみにマーキュリー劇場ではラジオ放送も行ったのだが、その中でも最も有名な逸話としてはウェルズがH.G.ウェルズ原作の『宇宙戦争』をモチーフに火星人がアメリカに襲来したというドキュメンタリー形式のラジオドラマを聴衆が本気に受け止めて、一時アメリカ国民がパニックになるという事態が起こったことである。この事件により、原稿を読み上げた張本人であるウェルズはニューヨークのみならず全米にその名を知らしめることになった。 演劇界でプロデューサーとしての成功を収めたハウスマンだったが、映画においてもプロデューサーとしての活動を続け、役者の分野にもキャリアを広げる。1973年に出演した青春映画『ペーパー・チェイス』では主人公の通うハーバード・ロー・スクールの教授を演じて、1974年のアカデミー助演男優賞とゴールデングローブ賞を受賞した。それがきっかけで役者としての活動も増え、晩年に至るまでその実力を発揮した。また名門である演劇スクールジュリアード学院では演劇の指導にもあたり、彼から演劇を学んだ生徒の中にはケヴィン・クラインやスティーヴ・グッテンバーグ、クリストファー・リーヴなどがいる。ビル・マーレイ主演のクリスマス映画『3人のゴースト』への本人役での出演を最後に、1988年、癌のためカリフォルニア州の自宅で死去した。86歳だった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ジョン・ハウスマン」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|