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ジョン・ハムデン(John Hampden、1594年 - 1643年6月24日)は17世紀イングランドの政治家・革命家。オリバー・クロムウェルの従兄にあたる。 ==生涯== バッキンガムシャーの郷士の家柄に生まれる。戦費調達の件で国王チャールズ1世が議会と対立し、1627年に国王は地主に公債貸付を強制的に割り当てる方法を考案し、貸付額を査定する委員を地方に派遣した。バッキンガムシャーでの委員会に出席した若いハムデンは、「マグナ・カルタを破る者に対する呪詛」を盾にして、公債の割り当てに反抗する。ハムデンはこの行為に対する刑罰としてゲートハウスに幽閉され、1628年チャールズ王・第三議会の前に釈放されたが、監禁の厳重さのためその風貌はすっかり変わっていたという。 かねてから国王が一般税として全国に課すことを提案していた造艦税についてハムデンは、この税は国王の力を不当に強めることとなり、イングランドの自由にとって危険であると考えた。1636年1月、ハムデンは造艦税が不法な税であると公言し、国民の精神を奮起させるべく活動を再開した。1637年11月にハムデンを被告とする公裁判が始まり、翌年4月に「任意の課税を禁じるどのような法律があったとしても、王の意思に反して抗弁することは許されない」という判決を下した。しかしハムデン裁判の成り行きはイングランド世論の焦点となり、彼の名は国王への反抗の旗印となる。 1640年の「短期議会」直前にハムデンはジョン・ピムとともにイングランド全土を遊説し庶民院を組織する。1640年12月にハムデン事件の判決は破棄され、造艦税は非合法と宣告された。しかし議会での勢力巻き返しを図る国王は、スコットランドと文書を往復したという容疑によりハムデンとピムをふくむ5人の議員を反逆罪で告発した。1642年1月4日、国王自らが5議員を逮捕しに庶民院に来るが、内報により5議員は事前に逃れ去る。その年の7月から国王との戦争に備えて議会が行政機関として創設した公安委員会の指導者としてハムデンとピムが選出された。9月にハムデンは議会軍の大佐に任命され、私的に兵士を徴募し訓練を始めた。しかし10月23日のエッジヒルの戦い以降、大内乱は議会軍劣勢のまま進行し、翌年の6月にルパート率いる王軍とハムデンを主将とする議会軍がチャルグローヴの野で会戦し、ハムデンは重傷を負って戦場から去り、6日後に死ぬ。彼の遺志はオリバー・クロムウェルに引き継がれる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ジョン・ハムデン」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 John Hampden 」があります。 スポンサード リンク
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