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ジョン・フォン・ノイマン(ハンガリー名:Neumann János(ナイマン・ヤーノシュ、)、ドイツ名:ヨハネス・ルートヴィヒ・フォン・ノイマン、, , , 1903年12月28日 - 1957年2月8日)はハンガリー出身のアメリカ合衆国の数学者。20世紀科学史における最重要人物の一人。数学・物理学・工学・計算機科学・経済学・気象学・心理学・政治学に影響を与えた。第二次世界大戦中の原子爆弾開発や、その後の核政策への関与でも知られる。 最初に結婚したマリエット・ケヴェシの娘マリーナ・フォン・ノイマン・ホイットマンは、1973年からピッツバーグ大学経済学部教授だった。1979年にゼネラルモーターズ社に入り、1985年から1992年まで副社長を務めた〔マクレイ 1998, p.19〕。 ==来歴== *1903年: ブダペストにて3人兄弟の長男として生まれた。名はヤーノシュ。愛称はヤーンチ。父は銀行の弁護士ノイマン・ミクシャ(英語名:マックス・ノイマン)、母はカン・マルギット(英語名:マーガレット・カン)で、ともにハンガリーに移住したユダヤ系ドイツ人だった〔マクレイ 1998, pp.40-62〕。 *幼い頃より英才教育を受け、ラテン語とギリシャ語の才能を見せた。6歳で7桁から8桁の掛け算を筆算で行い〔マクレイ 1998, p.66〕、父親と古典ギリシャ語でジョークを言えた〔マクレイ 1998, p.51〕。興味は数学にとどまらず、家の一室にあったウィルヘルム・オンケンの44巻本の歴史書『世界史』を読了した〔マクレイ 1998, p.55〕。好んで読んだもの、特に『世界史』やゲーテの小説などに関しては一字一句間違えず暗唱できた。長じてからも数学書や歴史書を好み、車を運転しながら読書することもあった〔。 *1910年ごろ: 父親がフェンシングの先生を招き、家族でフェンシングに取り組んだ。もっとも、ヤーノシュはまったく上達せず、先生も匙を投げてしまう。また、音楽の先生にピアノやチェロを習わせたが、これもまったく上達しなかった。実はレッスンの最中に譜面の裏に歴史や数学の本を隠して読んでいたことが後から判明した〔。 *1913年: 父親が貴族の称号をお金で購入した(オーストリアのユンカーに相当する位)。この段階で「ノイマン・ヤーノシュ」は「フォン・ノイマン・ヤーノシュ」になり、さらにドイツ語のヨハン・フォン・ノイマン''Johann von Neumann''に変わることになる〔マクレイ 1998, pp.59 f〕。 *1914年: ブダペストにあるルーテル・ギムナジウム「アウグスト信仰の福音学校」へ入学〔マクレイ 1998, pp.66-68〕。ノーベル物理学賞受賞者ユージン・ウィグナーとはルーテル校で学友だった〔マクレイ 1998, pp.26, 34, 70-71, 73-77〕。入学したルーテル校のラースロー・ラーツがヤーノシュの数学の才能を見抜き、父親に「ご子息に普通の数学を教えるのはもったいないし、罪悪とすらいえるでしょう。もしもご異存がなければ、私どもの責任でご子息にもっと高度な数学を学べるように手配いたします。」と話し、父親が承諾すると、ラーツはブダペスト大学の数学者にヤーノシュを引き合わせた。その数学者のひとりであるヨージェフ・キルシャーク教授がガブリエル・セゲー講師にヤーノシュの家庭教師を頼んだ。セゲーは最初の授業で試しに出題した問題をヤーノシュがみごとに解いたので、その夜自宅で涙を浮かべて喜んでいたと、セゲーの妻は記憶している〔マクレイ 1998, pp.71-73〕。 *1915年から1916年: セゲーはヤーノシュの家庭教師を続けた。その後、ブダペスト大学の数学者たちが個人教授をうけもった。そのうちのミヒャエル・フェケテとリポート・フェイエールが最もよく付き合った〔マクレイ 1998, p.72〕。 *1920年: 17才のギムナジウム時代に、数学者フェケテと共同で最初の数学論文「ある種の最小多項式の零点と超越直径について」を書く。その論文は1922年にドイツ数学会雑誌に掲載される〔マクレイ 1998, p.73〕。 *1921年: ラーツは父親との約束を守り、ヤーノシュが数学以外の科目を勉強するように指導した。ヤーノシュはギリシャ語、ラテン語や歴史、そして数学の授業も他の生徒と同じように受けていた〔。同窓生のウィルヘルム・フェルナーやウィグナーによると、ヤーノシュはみんなから好かれようと懸命に努力しており、いばるそぶりや自分の殻に閉じこもって周りを無視するようなことは無かった。しかし、体育は何をしてもまったくダメで、どうしても周りの学生といっしょになることはできなかった〔マクレイ 1998, pp.74-75〕。ギムナジウムでは首席であり、当時の成績表によると、ほとんどの科目は「優」であった。いっぽう、例外的に習字・体育・音楽の成績は落第すれすれの「可」であった〔マクレイ 1998, p.78〕。6月に受験した卒業試験「マトゥーラ」では首席であり、さらにエトヴェシュ賞にも合格した〔マクレイ 1998, pp.85 f〕。 *1921年から1926年: ブダペスト大学()の大学院で数学を学ぶ。数学よりも金になる学問をつけさせようと望んだ父親がセオドア・フォン・カルマンに相談した結果、ベルリン大学とチューリッヒ工科大学を掛け持ちして化学工学()を学ぶことになった。授業を欠席しても試験では非常に優秀な成績だった。23歳で数学・物理・化学の博士号を授与された。 *1926年: 論文がダフィット・ヒルベルトにいたく気に入られ、ゲッティンゲン大学でヒルベルトに師事する。ヒルベルトも彼に感心するばかりで、瞬く間にヒルベルト学派の旗手となった。 *1927年から1930年: 最年少でベルリン大学の私講師 (''Privatdozent'') を務めた。 *1930年代はナチス政権を避けて、ノイマン一家はアメリカ合衆国に移住することになり、ジョンというアメリカ風の名前に改名した。兄弟はみな異なった姓の表記に変え、ヤーノシュは、フォン・ノイマンvon Neumannという貴族風の匂いが強く残る苗字に、彼の兄弟たちはVonneumannとニューマンNewmanにした〔マクレイ 1998, p.60〕。 *1930年: プリンストンに招かれ、プリンストン高等研究所の所員に選ばれた(4人のメンバーのうち2人はアルベルト・アインシュタインとヘルマン・ワイルであった)。 *1933年以降、この研究所で数学の教授を務めた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ジョン・フォン・ノイマン」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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