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ジョン・ヘンリー・タワーズ : ミニ英和和英辞書
ジョン・ヘンリー・タワーズ[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ジョン・ヘンリー・タワーズ : ウィキペディア日本語版
ジョン・ヘンリー・タワーズ[ちょうおん]

“ジャック”ジョン・ヘンリー・タワーズ(''John Henry Towers'' 、1885年1月30日-1955年4月30日)はアメリカ海軍の軍人、最終階級は大将
タワーズはアメリカ海軍の海軍航空隊におけるパイオニアの一人であり、かつクラウンプリンス的存在。海のものとも山のものとも分からなかった「航空機」を海軍兵力の主力の一角にするため、「アメリカ海軍航空隊の父」ウィリアム・A・モフェット海軍兵学校(アナポリス)1890年組)とともに奔走した。生粋の海軍パイロット出身者初の大将でもあり、戦艦信奉者が占めていた時期のアメリカ海軍において、航空の重要性を説いたパイロット出身将官の最上位者でもあった。1939年から1942年までの間は(航空局)局長として航空行政全般に辣腕を振るったが、「父」モフェット譲りの積極的な政治活動や自身の個性の強さなどが周囲から忌避され、第二次世界大戦期には艦隊司令官などのポストに就くことができなかった。第二次世界大戦終結後に退役したあとは、宇宙飛行研究や民間航空産業の助言者的存在となって、航空一筋の生涯を全うした。
== 生涯 ==

=== 航空との出会い ===
“ジャック”こと、ジョン・ヘンリー・タワーズは1885年1月30日、ジョージア州ロームに生まれる。祖父はアメリカ連合国陸軍の連隊長で、父もアメリカ連合国陸軍の騎兵隊に所属していた経験があり、いわゆる「軍人一家」の家庭であるが、タワーズが生まれたころには農具販売業を営んでいた〔#谷光(2)pp.196-197〕。はじめは軍人ではなく技師を志し、ジョージア工科学校に進学するも、寄宿舎の同居人の態度にたまりかねて退学し、海軍兵学校(アナポリス)に改めて進学する〔#谷光(2)p.197〕。1906年にアナポリスを卒業し、卒業年次から「アナポリス1906年組」と呼称されたこの世代の同期には、フランク・J・フレッチャージョン・S・マケイン・シニアオーブリー・フィッチロバート・L・ゴームレーらがいる〔#谷光(2)序頁〕〔海軍兵学校(江田島)の卒業年次に換算すると、古賀峯一を輩出した34期に相当する(#谷光(2)序頁)。〕。1908年に少尉に任官したタワーズは戦艦ケンタッキー」乗り組みを経て、1911年に戦艦「ミシガン」乗り組みとなり、弾着観測を担当する〔。アメリカ戦艦の一種の特徴だった籠マストの頂部から観測を行うのがタワーズの役目だったが、高い場所とはいえ観測できる範囲には限度があった〔。タワーズは、弾着観測に関する疑問の答えを、当時は創世記の段階だった「航空」に求めた。
1903年12月17日のライト兄弟の「ライトフライヤー号」による初の動力飛行以降、アメリカ軍で先に航空機に手を出したのは陸軍だった。海軍と航空機に縁ができるのは、遅く見積もっても1910年11月14日に民間パイロットのユージン・バートン・イーリー軽巡洋艦バーミングハム」からの発艦実験が嚆矢で、タワーズが「ミシガン」に配属されたのと同じ1911年の1月18日には、同じくイーリーが装甲巡洋艦ペンシルベニア」からの発艦および「ペンシルベニア」への着艦に成功していた。1月27日には、海軍からサンディエゴのノースアイランドに派遣され、ヘリング・カーチス社社長のグレン・カーチスの指導を受けていたセオドア・G・エリソン中尉(アナポリス1905年組)が海軍軍人として初めて飛行に成功し、海軍パイロット第1号となっていた。こうした人的な動きに呼応し、海軍は3機の航空機を購入して航空隊の育成を本格的に開始する。購入したとなれば一定の数のパイロットも整備技師も必要になり、海軍はパイロットと整備技師を各3名ずつ募った〔#谷光(2)pp.197-198〕。
1911年6月27日、パイロットを志願したタワーズはにあるヘリング・カーチス社のカーチス飛行学校に入学する〔http://www.history.navy.mil/avh-1910/PART01.PDF〕。講師はカーチス自身であり、タワーズは1911年8月より、カーチスやエリソンの指導の下、海軍第1号機であるを使ってパイロットとしての訓練を受ける。また、カーチスが学校を挙げてノースアイランドに行き、カーチス A-1型水上機の改善を行った際にも同行した。1911年10月にはカーチス A-1型でアナポリスと間112マイルの距離を、122分で踏破する新記録を樹立。1912年秋、タワーズはアナポリスに設置される最初の海軍航空隊の設営を監督した。同じ1912年10月6日にはガソリンタンクを増設したカーチス A-2型で、6時間10分35秒のアメリカの航続時間新記録を達成し、12月にかけてはチェサピーク湾上空を飛んで、潜航中の潜水艦を発見するテストを行った。1913年に入り、グアンタナモ湾で行われた艦隊演習に参加したタワーズは航空機の偵察、爆撃および写真偵察の分野での可能性をテストし、研究した〔。
1913年5月8日、中尉に昇進したタワーズはカーチス飛行艇を使い、ゴッドフリー・シャヴァリア少尉(アナポリス1910年組〔:ja:ゴッドフリー・シャヴァリア とリンク -->" TITLE=":en:Godfrey Chevalier">:en:Godfrey Chevalier〕)とペアを組んでワシントン海軍工廠を出発してポトマック川、チェサピーク湾を経由しアナポリスに到着する全行程169マイルの飛行を行った〔http://home.earthlink.net/~ralphcooper/pimage5.htm〕。しかし、1カ月後の6月20日、タワーズはアクシデントに見舞われる。この日、タワーズはパイロットとしてではなく乗客として少尉(アナポリス1909年組〔:en:William Billingsley〕)が操縦する水上飛行機に乗っていた。しかし、水上飛行機がチェサピーク湾上空を飛行中に乱気流に巻き込まれて急降下し、ビリングスレイは機外に放り出されてアメリカ海軍航空隊初の死者となってしまった。タワーズも座席から放り出される寸前だったが、とっさに翼支柱をつかんで、機がチェサピーク湾に不時着水するまでその態勢を保った。事故後、タワーズはカーチスに事故の状況を話し、また報告書にしたためた。このときの報告書などが元となり、パイロットや乗客を安全に保護するシートベルトなどの安全装置が考案された。
1914年1月20日、タワーズは9名の士官、23名の人員および航空機7機とともにアナポリスからフロリダ州ペンサコーラに移動し、ペンサコーラの地にを設立する礎とした。4月20日には2名のパイロットと12名の下士官・兵および航空機3機からなる最初の航空隊を率いてペンサコーラから「バーミングハム」に乗り、タンピコ事件に参加してアメリカ海軍航空隊初の実戦参加を記録した〔http://www.history.navy.mil/branches/ww1av.htm〕。
1915年1月、海軍はパイロットの登録を公式に開始し、タワーズは1914年にさかのぼって海軍パイロット第3号として登録された〔http://www.history.navy.mil/avh-1910/APP01.PDF〕。少佐に昇進したタワーズは海軍省航空課に配属され、1917年にはパイロット徽章の作成を担当した〔http://www.history.navy.mil/download/ww1-10.pdf〕。徽章の配布は1918年1月19日から始まり、タワーズはこの時点でワシントンD.C.にいた海軍パイロットの中で、もっとも古参で、かつ高位に位置していた〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ジョン・ヘンリー・タワーズ」の詳細全文を読む




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