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===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
ジョン・M・ポラード(、1909年10月27日 - 1981年3月7日)は、カナダ・アルバータ州エドモントン出身の競馬の騎手。アメリカ合衆国やメキシコで騎乗を経験しており、特に1930年代のアイドルホース・シービスケットの主戦として知られる。 赤みがかった特徴的な頭髪からレッド・ポラード()というあだ名を持つ。またボクシング時代のリングネームから「クーガー」というニックネームも持っていた。 == 経歴 == === 出自、騎手デビュー === ポラードは幼い頃に赤貧に見舞われ、このため兄とともにアマチュアの賭けボクシングに参加するようになった。体格の良かった兄は成功をおさめたが、ポラードはそれほどの成績を収めなかった。この賭けボクサーはその後もしばらく続け、騎手になった後も長らく兼業していた。 ポラードが騎手を志すようになったのは10代の頃で、その頃には父から与えられた馬で乗り方を覚え、厩舎で働くようになっていた。そして知人を後見人にすることを条件として父から許可をもらい、ポラードはアメリカのモンタナ州ビュートにある仮設移動競馬場でクォーターホースの騎手としてのデビューを果たした。しかし後見人は程なくして行方不明になり、ポラードはいきなり無一文になった。騎手になって1年間ほどは勝ちを挙げられなかったが、1926年にエイサ・C・スミスという調教師に雇われるようになり、同師のもとで初勝利を挙げた。 その後メキシコのティフアナの競馬場でも騎乗するようになり、そこではジェリー・デュランという盲目の調教師の馬を担当して、6勝を挙げた。この活躍やポラードのデュランに対する気遣いが注目を集めるようになると、ポラードの株は次第に挙がってゆき、後にラス・マッガー調教師に契約対象が移された。ポラードは気性の荒い馬をなだめることがうまく、そういった乗り手の少ない馬で勝鞍を挙げていった。 1933年にカナダのオンタリオ州で騎乗し、プリンスオブウェールズステークスなどステークス2勝を挙げた。翌年にはギャラントサーという馬で、メキシコ・アグアカリエンテ競馬場のアグアカリエンテハンデキャップを優勝している。 また、この頃にポラードは調教中の負傷がもとで、右目を失明している。失明していることを明かすと騎手生命が絶たれると考えたポラードはこのことを誰にも明かさず、それまで以上に大胆な騎乗をするようにしてごまかし続けた。しかし成績は次第に低迷し、騎乗機会を求めてエージェントとともに各地の競馬場を放浪するようになった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ジョン・ポラード」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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