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ジョン・マキム(、1852年 - 1936年4月4日)は、米国聖公会の主教・宣教師。初代日本聖公会北東京地方部(現北関東教区)の主教(監督)〔当時、聖公会では「監督」との訳語が用いられていた。山形聖ペテロ教会 〕〔聖バルナバ・ミッションにかかわった人びと 〕。日本における聖公会伝道に尽力した。ジョン・マッキムとも転写される。 マサチューセッツ州出身〔マッキム McKim, John (デジタル版 日本人名大辞典+Plus)〕。 1880年に来日、照暗女学校チャプレンとなる。大阪、大和地方一体に伝道活動を行った。堺聖テモテ教会、奈良キリスト教会等の伝道の開始もジョン・マキムによっている〔奈良キリスト教会について 〕〔堺聖テモテ教会 〕。 1893年、東京主教として按手され、東京・京都・関東をはじめとした広範な地域における諸教会の創立、学校・病院等の創立・発展に尽力した〔『キリスト教大事典 改訂新版』1011頁、教文館、昭和52年 改訂新版第四版〕。滝廉太郎に堅信礼を授けたともされる〔『荒城の月』が聖歌になった 〕。 学校教育の面では、当時の日本における欧化の流行の終焉や、米国聖公会・英国聖公会からの資金援助の不足という困難な情勢下にあって、立教学校(現立教大学等の母体)の維持・発展に務めた。特に1899年に出された、認可校におけるキリスト教教育、および儀式を禁じるという文部省訓令第12号に対しては、当時の立教学校総理アーサー・ロイドとともに対策を練り、学校における宗教教育の可否を巡って文部大臣をはじめとする当局との困難な交渉にあたり、一定程度の当局からの許可という成果を挙げ、宗教教育を逆に従前よりも拡充する成功をみた。米国聖公会に対してこれらの成果を報告するとともに資金援助も取り付けている〔立教大学の歴史と特色 (PDF)〕。 日本に正教を伝道したロシア人主教ニコライ・カサートキン(のちに亜使徒として正教会で列聖)、およびニコライの後継者となった府主教セルギイ・チホミーロフと親交があった。当時、ニコライおよび彼の指導下にあった日本の正教会は、聖公会と比較的良好な関係にあった〔中村健之介『宣教師ニコライと明治日本』147頁 - 149頁、岩波新書、ISBN 9784004304586〕〔『宣教師ニコライの日記抄』(レビュー) - 八木谷涼子による。〕。関東大震災で崩落したニコライ堂の再建後、1929年のセルギイ府主教司祷の大聖堂成聖式には、マキムも祭服着用の上で参加している〔府主教セルギイ著(府主教ダニエル監修)『東京復活大聖堂と関東大震災』53頁、正教時報社。ここで府主教セルギイは主教マッキム博士のことを「故大主教ニコライと私の大親友」と記している。〕。 1935年、帰国。1936年4月4日逝去(83歳)〔。 == 脚注 == 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ジョン・マキム」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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