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===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
ジョン・デュラン・ラッキー(John Derran Lackey, 1978年10月23日 - )は、アメリカ合衆国・テキサス州アビリーン出身のプロ野球選手。右投右打の投手。MLB・シカゴ・カブス所属。 == 経歴 == にドラフト2巡目でアナハイム・エンゼルスから指名を受け、テキサス大学アーリントン校からプロ入り。プロ4年目となる6月24日に、メジャーデビューを果たし、その年のポストシーズンチームがワールドチャンピオンに輝いた時、第7戦に先発登板していた。その試合で勝ち投手となり、球団史上初の世界一を決めた。第7戦で新人投手が勝ち投手となったのは1909年のワールドシリーズのベーブ・アダムズ以来である。 マイク・ソーシア監督はエースのジャロッド・ウォッシュバーンがスプリングトレーニング期間中に左肩を負傷したため、ラッキーをの開幕投手に指名。同年、先発ローテーションに定着し、10勝16敗と負け越したが、翌には14勝13敗を記録した。 7月12日のオールスター開催前までの成績が6勝4敗、防御率4.22だったが、それ以後は8勝1敗、防御率2.57を記録。この成功の要因は、投球の幅を広げるために再び投げ始めたサークルチェンジだった。この当時をラッキー本人は、「若い頃はほとんど投げていなかったから、あまり自信がなかった。でも、もっと質の高い投球をするためには何が必要か、と考えた時にチェンジアップという答えが出たんだ」と語っている〔『月刊スラッガー』2005年11月号 日本スポーツ企画出版社 53頁〕。シーズントータルではリーグ3位の199奪三振を記録し、奪三振率はヨハン・サンタナに次ぐリーグ2位の8.57を記録し、防御率3.44はチームメイトで同年サイ・ヤング賞投手バートロ・コローンより良かったが、打線の援護に恵まれず14勝に終わった。 開幕戦の4月3日に球団と3年総額1701万ドル(4年目の2009年は球団側選択オプション)で契約延長し、13勝11敗、リーグ5位の防御率3.56、リーグ3位の190奪三振を記録した。7月には5勝1敗、防御率2.08の成績で自身初の月間最優秀投手に選出され、7月7日のアスレチックス戦ではマーク・コッツェイに二塁打を1本打たれただけの準完全試合を達成した。シーズンオフに実施された日米野球では、アメリカ代表チームの一員として来日。第1戦と第5戦で先発投手に抜擢された。 はリーグ2位タイの19勝、防御率3.01で最優秀防御率のタイトルを獲得し、リーグ最多タイの2完封を記録した。 4月2日のレンジャーズ戦で4年ぶり2回目の開幕投手となり、5回を無失点に抑え、勝ち投手となった。5月11日から6月1日にかけて5戦5勝を記録し、6月13日にリーグ最速で10勝に到達。初のオールスターに選出された。サイ・ヤング賞の投票ではC.C.サバシア(119ポイント)、ジョシュ・ベケット(86ポイント)に次ぐ36ポイントを集めたが、大差での3位だったため評価が不当に低いのではという声もあった。 右ヒジ痛のためは開幕を故障者リストで迎え、シーズン初登板は5月14日。5月の登板した4試合は7回以上を投げ、3失点以内に抑え、復活を印象づけた〔小林信行 「MLB30球団最新レポート&全選手個人成績 ロサンゼルス・エンゼルス/LAA ラッキーが投げる時には勝つ空気が流れる」『スラッガー』2008年9月号、日本スポーツ企画出版社、2008年、雑誌 15509-9、79頁〕。6月も好調を持続〔。登板した全5試合で7回以上投げ、2失点以内に抑え、2度目の月間最優秀投手に選出された。6月29日のレッドソックス戦では9回1アウトまで無安打に抑えていたが、ダスティン・ペドロイアにヒットを打たれ、ケビン・ユーキリスにツーラン本塁打を浴びたが、6対2で完投勝利。12勝5敗・防御率3.75の成績でシーズンを終え、球団は900万ドルのオプションを行使し、もエンゼルスでプレーすることが決まった。 昨年に続き、2009年も開幕を故障者リストで迎え、シーズン初登板は5月16日のレンジャーズ戦。その復帰戦では、初回先頭打者のイアン・キンズラーに死球を与え、2球で危険球退場となった。8月30日のアスレチックス戦で球団史上5人目となる通算100勝を達成。シーズン終了後、FAとなり、12月16日にボストン・レッドソックスと5年総額8250万ドルの契約に合意。それまでずっと着けていた背番号41はビクター・マルティネスが着けているため、40を選択した。マルティネスがデトロイト・タイガースへ移籍した2011年からは背番号を41に戻した。 のオフにトミー・ジョン手術を受け、はマイナーを含めて1試合も登板できなかった。 、開幕5試合目で復帰したものの、その後1試合をAA級ポートランド・シードッグスで調整し、4月28日にようやく本格復帰となった。ワールドシリーズでは最終第6戦で先発し、6回無失点で勝利投手なった。 7月31日、チームのプレーオフ進出の可能性が低くなったため、アレン・クレイグ、ジョー・ケリーとのトレードでコーリー・リトレルと共にセントルイス・カージナルスへ移籍した。 2015年、自身5年ぶり6度目となる200投球回を記録した。また、自身初めて防御率2点台を記録したが、これは指名打者制のアメリカンリーグのチームの所属が長かったことも影響している。11月2日にFAとなった。12月8日、シカゴ・カブスと2年3200万ドルの契約を結んだ。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ジョン・ラッキー」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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