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ジョン・ロウリネイティス(John Hodger Laurinaitis、1962年〔アニマル・ウォリアー、アンドリュー・ウィリアム・ライト『ロード・ウォリアーズ 破滅と絶頂』P34(2011年、東邦出版、ISBN 4809409511)〕7月31日 - )は、アメリカ合衆国の元プロレスラーで、現在はWWEの副社長の1人である。「ジョン・ラリナイダス」などと表記される場合もある。生年は1965年ともされる。 プロレスラーとしてはジョニー・エース(Johnny Ace)をリングネームに、主に全日本プロレスで活躍した。「カッター」「スタナー」と呼ばれるムーヴの創始者とされている(後述)。 ジョー・ロウリネイティス(ロード・ウォリアー・アニマル)は兄、マーク・ロウリネイティス(ザ・ターミネーター / フューリー)は弟にあたる。甥のジェームズ・ロウリネイティスは、NFLロサンゼルス・ラムズのラインバッカーとして活躍している。 == 来歴 == 1986年、NWAフロリダ地区のCWFにおいてデビュー。当時はザ・シープハーダーズのマネージャーとして、ヒールのポジションにいた。その後、ノースカロライナのジム・クロケット・プロモーションズ(WCWの前身)に転戦し、シェーン・ダグラスとのアイドル系タッグチーム "ダイナミック・デューズ(The Dynamic Dudes)" で活動する。1989年にはCWFの後継団体FCWにて、弟のザ・ターミネーターとのコンビでナスティ・ボーイズとタッグ王座を争った。 その間の1988年8月、全日本プロレスに初来日。以降も全日本の常連外国人レスラーとして、小橋健太、スティーブ・ウィリアムス、マイク・バートン、スタン・ハンセンらとコンビを組んで活躍。1990年代全般は主戦場を全日本マットに絞り、1998年には三沢光晴の三冠ヘビー級王座に挑戦した。敗れたものの各種のエース・クラッシャーで三沢を苦しめた。 リングネームのエースにちなんで、入場時にオリジナルのトランプのエースカードを撒くというパフォーマンスを行った時期もある。また、ピースサインをパフォーマンスとして用いた時期もあり、その当時のタイツにはピースサインが施されていた。 2000年に全日本から三沢らが離脱したのをきっかけにレスラーを引退。全日本ではアメリカ人選手の招聘窓口も兼務していたことから、その人脈と手腕を見込まれ、引退後はWCWのブッキング部門の責任者となったが、WCW崩壊後はWWF(現WWE)に移籍した。同様にブッカーとして活躍し、2004年にタレント・リレーション部担当副社長、2007年には同上席副社長となるなど、エグゼクティヴとしてのキャリアを重ねている。 全日本との繋がりは現在でも強く、WWEを解雇されたレスラーがエースの紹介で全日本プロレスに参戦することも多い。また、仲田龍とも旧知の仲であるため、ノアのレスラーがWWEのダーク・マッチへ出場することもあったが、森嶋猛と潮崎豪がビンス・マクマホンに酷評されてからは行われていない。 WWE入社後は背広組としての仕事が主で番組に出演することはほとんどなかったが、2011年からはビンス・マクマホンやCMパンクとの絡みで番組に度々登場し、ストーリーにもRAW臨時GMとして出演した。その後、正式なロウのGMに任命され、レッスルマニアXXVIIIにおいて、スマックダウンのGMセオドア・ロングとのGMの座をかけた試合に勝利し、ロウとスマックダウンの両番組のGMに就任した。このストーリーは2012年6月のノー・ウェイ・アウトにおいて、自身の代理人であるビッグ・ショーがジョン・シナに敗れ、自身はGM解任を告げられるという形で終了した。 2013年には、レッスルマニア間近のスマックダウンに登場して、シナと戦うザ・ロックのセコンドになろうとしてロックに接近したが、叩きのめされた。 5月、小橋健太の引退時に同番組にて感謝のメッセージを送った。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ジョン・ロウリネイティス」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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