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ジョヴァンニ・プラキド・アゴスティノ・パスコリ(Giovanni Placido Agostino Pascoli、1855年12月31日-1912年4月6日)は、イタリアの詩人、古典学者。 == 経歴 == サン・マウロ・ディ・ロマーニャに生まれる(同市は1932年にパスコリに対する敬意を表してサン・マウロ・パスコリと名前を改める)。父はルゲッロ・パスコリ、母はカテリナ・ヴィセンツィ。生家は裕福で、10人兄弟の4番目として生まれた。父親はトルロニア家所有の農地の管理者であり、一家はその土地で代々暮らしていた。 1867年4月10日の夕刻、ルゲッロ・パスコリは、黒と白のぶちの雌馬に引かせた馬車に乗って、チェゼーナの市場から自宅に戻る途中、車道の側溝に潜んでいた暗殺者によって射殺されてしまう。雌馬は、そのまま死体を乗せて家まで帰ってきた。殺人犯は捕まえられることはなかった。 ジョヴァンニ・パスコリは、妹と、そして二人の弟達と、悲しく不幸な子供時代を送った。父親は殺され、母親は早くに亡くなり、続いて経済的な凋落に見舞われたのである。父親の暗殺は、特に彼の最も有名な詩の一つ「La cavallina storna」にその影響を垣間見ることができる。パスコリの最初の詩集「Myricae」(1891)には、不幸な子供時代が影を落としている。 1871年、パスコリは6人の兄弟達とともにリミニに移る。ここで彼はアンドレア・コスタと友人となり、社会主義者達の示威行動に参加するようになる。これがパスコリの人生におけるもう一つの転機となった。パスコリは、ウンベルト1世を殺そうとした無政府主義者、ジョヴァンニ・パサナンテの逮捕に抗議した結果、ボローニャでごく短期間だが投獄されたのである。パスコリは、ボローニャでの社会主義者の集会に参加している時に、パサナンテへの頌歌を作ってはみたものの、すぐに破棄している。 パスコリはボローニャ大学で学び、彼の師でもありまた良き相談相手でもあったジョズエ・カルドゥッチと出会う。1882年に大学を卒業し、マテーラとマッサの高校で教鞭をとるようになる。妹であるイーダとマリアの住む部屋のすぐ隣に部屋を借り、独自な家族を新しく作ろうと試み、彼が言うところの「巣」を、彼自身と妹達のために作り上げようとした。パスコリは、ほぼ結婚することに決まっていたにもかかわらず、結局結婚はしなかったと考えられている。というのも、妹達との関係が成熟したものにならず、そしておそらく曖昧なままであったからである。 一方で、パスコリは、Vita nouva誌と提携し、自分の作品を発表し始めるようになる(最初にVita nouva誌から自作の詩を発表し、後にMyricaeに収められることになった)。1894年に、パスコリはローマに呼び出され、教育省で働くよう要請される。ここでパスコリは「Poemi conviviali」の初版を出版する。この後、彼はボローニャ、フローレンス、メッシーナといった都市に住むことになるが、心では常に、自分の出自である農村の風景と体験を忘れたことはなかったのである。 1895年、パスコリと妹のマリアは、トスカーナ州、バルガの近くの、カステルヴェッキオの一軒家に移る。この家は、パスコリが取った文学賞の賞金で購入したものだった。20世紀初期の社会的、そして政治的な騒擾は、イタリアの第一次世界大戦への参戦、またファシズムの到来という結果をもたらすが、そうした環境は、パスコリの抱える不安と厭世主義を一層強いものにしたのである。 1897年から1903年にかけて、彼はラテン語をメッシーナ大学で教えている。そしてピサに移っている。カルドゥッチが引退した際には、パスコリは彼の後をついでボローニャ大学のイタリア文学の教授となった。1912年、ボローニャで、アルコールの濫用からすでに悪化していた肝硬変が肝臓ガンとなり、これが原因でパスコリは他界した。56歳だった。無神論者だったため、カステルヴェッキオの自宅に隣接するチャペルに葬られた。そこには、彼の愛する妹マリアもまた、埋葬されることとなったのだった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ジョヴァンニ・パスコリ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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