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ジョージ1世(, 1660年5月28日(グレゴリオ暦6月7日) - 1727年6月11日(グレゴリオ暦6月22日))は、ハノーヴァー朝のグレートブリテン王国及びアイルランド王国の国王(在位:1714年8月1日 - 1727年6月11日)、及びハノーファー選帝侯(在位:1698年 - 1727年)。ドイツ語名ゲオルク・ルートヴィヒ()。 ステュアート朝のイングランド王ジェームズ1世の曾孫の一人で、同じくジェームズ1世の曾孫であるウィリアム3世、メアリー2世、アンの3君主及びジェームズ老僭王の又従兄弟、カンバーランド公ルパートの甥にあたる。また、神聖ローマ皇帝ヨーゼフ1世妃アマーリア・ヴィルヘルミーネは父方では従妹、母方では従姉の娘(従姪)にあたる。デンマーク=ノルウェーの王クリスチャン5世、アンの王配であるカンバーランド公ジョージの兄弟も父方の従兄に当たる。 ハノーファー選帝侯時代はドイツ諸侯として多くの戦いに参加し、ステュアート家の血を引くことからイギリス王も兼ねたが、イギリスの政治には積極的でなく内閣に一任した。この体制により「国王は君臨すれど統治せず」という立憲君主制が出来上がっていった。 == 生涯 == === ハノーファー選帝侯ゲオルク === 後にイギリス王ジョージ1世となるゲオルク・ルートヴィヒは1660年、初代ハノーファー選帝侯エルンスト・アウグストとその妃ゾフィーの長男としてハノーファーで生まれた。当時エルンスト・アウグストはブラウンシュヴァイク=リューネブルク公家の末子に過ぎず、家督を相続してさらに選帝侯の一人となるのは後のことである。母ゾフィーはプファルツ選帝侯兼ボヘミア王フリードリヒ5世とその妃エリーザベト(エリザベス)の娘で、エリーザベトの父であるイングランド王ジェームズ1世を通じてステュアート家に連なる。 継承前から戦争に携わり、1675年から父と共にオランダ侵略戦争で神聖ローマ皇帝レオポルト1世に味方して反フランス側に立ち参戦、1683年の第二次ウィーン包囲で解放軍に加わり、大トルコ戦争や大同盟戦争にも従軍、1693年にはイングランド王兼オランダ総督ウィリアム3世に従いフランス軍と交戦した。1698年に父が亡くなったハノーファー選帝侯位を継承し、ドイツ領邦国家の君主となった。 1702年に始まるスペイン継承戦争ではイングランドと同盟して反フランス側に就き、同年にフランス側に就いた同族のヴォルフェンビュッテル侯アントン・ウルリヒの領土を奇襲、ヴォルフェンビュッテルを戦争から離脱させた。1705年、伯父(舅でもあった)のリューネブルク侯ゲオルク・ヴィルヘルムが息子のないまま死去した後、リューネブルク侯領を自領に加えた。1707年から1710年までバイロイト辺境伯クリスティアン・エルンストに代わってライン川方面司令官に就任、ライン川流域の守備を担当した。1708年にはライン川守備の功績から選帝侯会議に列席出来るようになり、正式に選帝侯の地位が認められた〔友清、P56、P131、P203、P233。〕。 イングランド軍司令官としてライン川流域を転戦していたマールバラ公ジョン・チャーチルやオーストリアの将軍プリンツ・オイゲンと面識を持ったこともある。1708年にマールバラ公らがネーデルラント方面に向かいアウデナールデの戦いでフランス軍を撃破したことを自分を出し抜いたと不満に思ったが、後にマールバラ公が政争で司令官の地位が危うくなるとマールバラ公への信任を表明した手紙をマールバラ公に送っている。またマールバラ公が失脚し、トーリー党が強引に和睦を図りイギリス軍を引き上げさせたことに反発、終戦までオイゲンの下で戦い抜いた〔友清、P221、P289 - P290、P348 - P359。〕。 一方、イングランドでは王位継承者を巡る問題が起こっていた。ウィリアム3世には実子がおらず、後継者とされた義妹で従妹のアン(女王、1702年に即位)の子もことごとく夭逝していた。アンには異母弟ジェームズ(後に老僭王と呼ばれる)がいたが、ジェームズは父ジェームズ2世(1701年に死去)と同じくカトリック信者であった。カトリックの国王を望まないイングランド議会はジェームズを国王に迎えることを嫌って、ステュアート家の血を引き、かつプロテスタントであるゾフィーの子孫のみが国王となることができるとする王位継承法を1701年に制定した。さらに1707年には、100年余りにわたって同君連合の関係にあったスコットランド王国と合同し、グレートブリテン王国が成立した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ジョージ1世 (イギリス王)」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 George I of Great Britain 」があります。 スポンサード リンク
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