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与那城 ジョージ(よなしろ ジョージ、本名:与那城 ジョルジ、1950年11月28日 - )は、ブラジル・サンパウロ州出身の日系二世の元サッカー選手、サッカー指導者。 ==来歴== 沖縄県からブラジルに移民した両親の元で5人兄弟の末っ子として生まれ、グレミオ・レクラチーボ・トウキョウに所属して日系人リーグで活躍する。 1972年、日本サッカーリーグ2部所属の読売サッカークラブに入団。同クラブの1部昇格とその後の躍進の立役者として大きく貢献し「ミスター・ヨミウリ」と呼ばれた。 クラブ側の外国人選手を一人でも多く起用したいという方針により帰化を勧められ、1985年1月に日本に帰化。登録名は与那城ジョージ。帰化当初は日本代表入りは想定していなかったが、森孝慈監督の抜擢により同年に行われた1986 FIFAワールドカップ・アジア予選の最終予選2試合に出場した。しかし既に34歳となった与那城はこのワールドカップ予選での戦いを通じて、自分のプレーがトップレベルにないことを実感し、引退を決意した〔海を渡ったサムライたち―日伯セレソン物語(6)―ジョルジ与那城-3-スピード通じず引退決意-34歳の遅過ぎた「日の丸」 ニッケイ新聞 2002年6月5日付記事(アーカイヴ)〕。 引退後は指導者の道へ進み、1986年から読売クラブの監督に就任した。監督経験の無い与那城であったが、ブラジルから招聘したジノ・サニ特別コーチのサポートもあり、監督就任1年目で日本リーグ、天皇杯全日本サッカー選手権大会の二冠を成し遂げた。1989-90シーズン終了後に読売クラブの監督を退任した。 1992年から1993年まで名古屋グランパスエイトのヘッドコーチ、1994年に京都パープルサンガ(現:京都サンガF.C.)の監督代行、1996年に京都のヘッドコーチを歴任。 2004年、当時沖縄県1部リーグ所属のFC琉球の監督に就任。2004年に九州サッカーリーグ昇格、2005年に日本フットボールリーグ(JFL)昇格を果たした。2006年はJFL14位の成績に終わり、シーズン終了後に監督を退任した。 2007年、当時九州リーグ所属のニューウェーブ北九州(現:ギラヴァンツ北九州)の監督に就任。同年にJFL昇格、2009年にJリーグ昇格を果たした。2010年シーズンは、33試合連続未勝利のJリーグワースト記録を喫するなど、年間1勝の最下位。シーズン終了後に契約満了に伴い監督を退任〔ギラヴァンツ与那城監督退任 朝日新聞福岡・北九州版 2010.11.6付記事 (アーカイヴ)〕〔ギラヴァンツ北九州 与那城監督退任 驚くサポーターら 西日本新聞 2010.11.6付記事 (アーカイヴ)〕。 2013年、ブラウブリッツ秋田の監督に就任した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「与那城ジョージ」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 George Yonashiro 」があります。 スポンサード リンク
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