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===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
ジョセフ・エグルストン・ジョンストン(〔Josephはジョセフ、ジョゼフ、あるいはジョーゼフという発音がある〕、1807年2月3日-1891年3月21日)は、アメリカ合衆国陸軍の職業軍人であり、南北戦争の間は南軍の最上級将軍の一人だった。有能な指揮官であったが南部連合の大統領であるジェファーソン・デイヴィス大統領と折り合いが悪く、実力を発揮できなかった側面もあるが積極的な攻撃性に欠けていたことも事実であり、個人的に指揮を執った作戦ではことごとく勝利を逃している。 == 生い立ちと初期の経歴 == ジョンストンはバージニア州ファームビルのロングウッド・ハウスで、判事のピーター・ジョンストンとメアリーの息子として生まれた。この家は後に焼失した。再建された家は現在ロングウッド大学の学長宅となっている。ジョンストンの名前は父親が独立戦争に従軍したときに仕えた上官、ジョセフ・エグルストン少佐の名前を貰った。陸軍士官学校に入り、1829年に卒業した。1836年に軍隊を離れ、土木工学を勉強した〔Pacific Coast Survey of 1849 and 1850 - noaa.gov - Retrieved December 26, 2007 〕。第二次セミノール戦争の時には、ウィリアム・ポープ・マッカーサーが指揮する船に乗る文民の地形学技師になった。1837年1月12日、フロリダ州ジュピターで上陸していた船員が襲われ、ジョンストンも衣服に「少なくとも30発の銃痕」が開き、1発は頭皮をかすめて終生消えない傷跡が残ったと言っていた〔Joseph E. Johnston: A Civil War Biography by Craig L. Symonds - W. W. Norton & Company - 1994 ISBN 0393311309〕。 1838年には軍隊に戻った。 米墨戦争の間、ジョンストンは2回の名誉昇級を果たし、セルロ・ゴードの戦いとチャプルテペクの戦いの2つの戦いで負傷した。以前のセミノール戦争の時の働きでも名誉昇級したことがあった。カリフォルニア州で勤務し、1860年6月28日にはアメリカ陸軍主計総監に任命された。 ジョンストンは、デラウェア州選出の連邦議員でアンドリュー・ジャクソン大統領内閣の一員でもあったルイス・マクレーンの娘、リディア・マクレーンと結婚した。リディアは1887年に死んだ。ジョンストンの兄チャールズ・クレメント・ジョンストンもアメリカ合衆国下院議員を務め、甥のジョン・ウォーフィールド・ジョンストンは上院議員となった。どちらもバージニア州選出だった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ジョセフ・ジョンストン」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Joseph E. Johnston 」があります。 スポンサード リンク
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