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ジョー・ドーリング(''Joe Doering''、1982年4月16日 - )は、アメリカ合衆国のプロレスラーである。イリノイ州シカゴ出身。 == 来歴 == プロレスデビューは2004年12月19日。TNAではTVショーのTNA iMPACT!やPPV大会にも出場していた。 2007年6月に、全日本プロレスにフィル・アトラスと共に留学生として来日。道場で若手選手、練習生と共同生活をしていた。 2007年6月24日から始まったCROSS OVERシリーズで日本マットデビュー。7月には武藤敬司からVOODOO-MURDERS退治のパートナーに抜擢された。 2007年8月いっぱいで留学期間を終え、9月シリーズからは一外国人選手として参戦。 2007年10月18日の代々木大会では諏訪魔から勝利を奪う。 2007年11月からは武藤敬司と共に世界最強タッグリーグへの出場し、優勝を果たした。 2008年1月3日の後楽園大会で武藤と共に小島&TARU組から世界タッグ王座を奪取。自身初の王座獲得となった。 2008年3月22日の新潟大会ではタッグ戦ではありながらも太陽ケアからも勝利を収めた。 2008年4月5日から開催されたチャンピオン・カーニバルに出場。西村修、そして前三冠王者の鈴木みのるから勝利を収めた。 2008年5月11日、後楽園大会でVOODOO-MURDERSの外国人選手ゾディアックと一騎打ちが実現し、スパイラル・ボムで勝利。試合後VOODOO-MURDERSがジョーの髪とゾディアックのマスクを賭けたリベンジマッチを要求しこれをジョーが受諾。5月25日の神戸大会でマスカラ・コントラ・カベジェラマッチで再戦し、その試合でも勝利した。 2008年6月28日、鈴木みのる、太陽ケア組に破れ世界タッグ王者から陥落。 2008年9月13日、GURENTAIとのキャプテンフォールイリミネーションマッチに出場。武藤敬司等の攻撃が誤爆し退場となるときに本隊と不穏な空気を見せた。だが、その後のシリーズでは特に異常な様子は見られず、良好に試合をこなしていたため、この空気は一時治まったかのように見えた。しかし、最終戦でパートナーである真田聖也にレボリューションボムを食らわせてまさかのVM入りとなった。 VM加入後はトレードマークの金髪とVMカラーの赤を混ぜている。2008年の最強タッグではゾディアックとの『ブードゥータワーズ』で出陣し、その圧倒的な破壊力で相手を圧倒し最終戦前まで勝ち点8と優勝決定戦進出を目前としていた。ところが、ゾディアックが急性腹膜炎で緊急手術をすることになり、リタイアとなった。 2010年、WWEとディベロップメント契約を結び、3月にFCWにてデビューした。4月にリングネームをドレイク・ブリュワー(''Drake Brewer'')に変更。体格、力が上のレスラーが多いせいか出番が少なく、9月に解雇という形になってしまった。 2010年11月5日、全日本プロレス台湾大会に於いてチャーリー・ハースの諸般の事情による欠場を受けて、急遽出場となった。 2011年にVOODOO-MURDERSに復帰。河野真幸とのタッグで世界タッグを獲得するが、VOODOO-MURDERSが平井伸和(スーパー・ヘイト)への暴行事件により解散。以後はビッグ・ダディ・ブードゥーとタッグを組み世界最強タッグにも出場。 2012年の5月に久々に来日。自身がヒールターンするきっかけとなった真田聖也とタッグを組んで世界タッグ王座獲得。しかし、1ヶ月後に組まれたGET WILDのリマッチで敗れ、王座を失い、試合後に真田とのコンビを解消。9月にベスト・パートナーを連れて来ると言い、今度はゾディアックと組んでまた世界タッグ挑戦を目論む。 2013年、全日本プロレス分裂騒動の際には諏訪魔と同様、全日本プロレス残留(ジョーはフリーであるため、継続参戦ということになる)を表明。10月に諏訪魔とのタッグで自身4度目の世界タッグ王座戴冠と共に、年末の最強タッグで優勝した。 2014年7月27日、全日本・後楽園大会で諏訪魔を破り、三冠ヘビー級王座を奪取した(第50代) 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ジョー・ドーリング」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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