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ジラール・ド・ルシヨン(Girart de Roussillon、810年 - 877年3月4日?/879年)はブルゴーニュの族長。パリ伯(839年 - 841年)、ヴィエンヌおよびリヨンの伯(843年 - 870年)。パリ伯ルタール1世の息子であり、シャルル2世と戦ったことで皇帝ロタール1世に抱擁された。 また、名前については、ジラール(Girard)、ジェラール2世(Gérard II)、ジラール・ド・ヴィエンヌ(Gyrart de Vienne)などとも表記される。 正式な歴史資料によれば、ジラールはルシヨンの出身である旨の記述はない。彼の称号に付けられている「ルシヨン」の地名は、セーヌ川付近に建設した城に由来する。それにでも、「フランスもの」あるいはカロリング物語群などの叙事詩などの影響から、彼は「ジラール・ド・ルシヨン」と表記されることが多い。これらの物語では、ジラールはドーン・ド・マイヤンスの息子と言う設定で登場することもあるが、個々の物語間で出自を含めて整合性が取れていないこともある。 == 史実 == ジラールは、841年のフォントノワの戦いにおいて戦い、後に義兄弟となるロタール1世に従ってエクス=アン=プロヴァンスに赴いたとされる。同年パリ伯位を失う。843年にはトゥール伯ユーグ(:en:Hugh of Tours)の娘でベルタ(Bertha)と結婚した。このベルタはロタール1世の妻であるエルメンガルド・ド・トゥール(:en:Ermengard of Tours)の姉妹にあたる。 855年、ジラールはロタール1世の息子シャルルが、名目上プロヴァンス王になると、それを助けるためプロヴァンスの知事に就任した。おそらく、ジラールはプロヴァンスの北方の支配者であることを望んでいたと考えられており、王子であるロタール2世が死去する869年までプロヴァンスを管理し続けた。しかし、ロタール2世の死に乗じシャルル2世 (西フランク王)がプロヴァンスを得ようと画策、ジラールの妻ベルタがヴィエンヌを防衛していたが、870年にメルセン条約によりプロヴァンスはシャルル2世のものとなり、リヨンおよびヴィエンヌ伯位はシャルル2世の義弟ボソ(後にプロヴァンス王)に与えられた。871年に妻とともにアヴィニヨンに引退すると、おそらく877年、おそくとも879年には死亡した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ジラール・ド・ルシヨン」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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