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ジルベルト・デ・メーロ・フレイレ(Gilberto de Mello Freyre, 1900年3月15日 - 1987年7月18日)は、ブラジルの社会学者、文化人類学者、歴史家、ジャーナリスト、政治家。20世紀のブラジルを代表する文化人であり、代表作である『大邸宅と奴隷小屋』(''Casa-Grande & Senzala'') は、植民地時代のブラジルにおけるプランテーション(大農園)での家父長制下の社会と生活を描いたもので、欧米各国で翻訳され西洋思想の古典として高い評価を受けている。 == 生涯 == === 大学院卒業まで === ブラジル北東部(ノルデステ)ペルナンブーコ州の州都レシフェ市の、砂糖きび農園を経営する旧家に生まれた。農園主の一族としては金銭的に恵まれない生活を送っていたが、教師であり法律家であった父親アルフレッド・フレイレの元でエリート教育を受けて育った。1907年から1917年まで南部バプテスト連盟が設立したプロテスタント系のミッションスクール(現在のコレジオ・アメリカーノ・バティスタ)に通い、卒業に前後してバプテスト教会の信者となった。卒業後しばらくレシフェで布教活動を行い、1918年バプテスト教会の奨学金を得て、神学を学びにアメリカ合衆国テキサス州にある同じく南部バプテスト連盟が設立したベイラー大学へ留学した。 当時の多くのブラジルの知識人同様に進歩的かつ自由主義的な考え方を持っていた父親に影響され、アメリカの反ブルジョワ的なキリスト教に憧れを持っていたと、後にフレイレは語っている。しかし、アメリカで待ち受けていたのはクー・クラックス・クランの集団や、黒人へのリンチ殺人といった厳しい人種差別の現実であった。やがて米国のプロテスタントへの疑問を抱くようになり、さらに非洗礼者であった父親がバプテストの学校で教鞭をとることに教会が批判的であったこともあり、宣教師への道を諦めた。卒業論文のテーマは、テキサスのマイノリティの社会学的な調査だったが、大学に評価されることはなかった。ベイラー大学の在学中に、1825年に創刊されたラテンアメリカ最古の日刊紙『ディアリオ・デ・ペルナンブーコ』への寄稿を始め、ベイラー大学の英文学者ジョゼフ・アームストロングから高い評価を受けた。 1920年にベイラー大学を卒業し、同年秋、ニューヨークのコロンビア大学大学院に進学。政治学部で人類学者フランツ・ボアズに師事し、その門下で多大な影響を受けた。ポアズは文化相対主義を唱え、人間集団の格差を人種的・地理的な要因と文化的・環境的な要因に分けて考えた。1922年、19世紀におけるブラジルの奴隷とイギリスの労働者の生活を比較した修士論文『19世紀中葉ブラジルにおける社会生活』を提出し、修士号を得た。この論文は、米国のラテンアメリカ研究誌『ヒスパニック・アメリカン・ヒストリカル・レヴュー』に掲載された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ジルベルト・フレイレ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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