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ジークフリート・バルト(Siegfried Barth、1916年1月23日 - 1997年12月19日)は、第二次世界大戦時のドイツ空軍の爆撃機パイロットであり、西ドイツ空軍では第32戦闘爆撃航空団の指揮官を務めた軍人である。また、戦場での卓越した行為や軍事上のリーダーシップを発揮した者に授与された騎士鉄十字勲章の受勲者である。1969年から1972年までNATOの欧州連合軍最高司令部(SHAPE)にも勤務した。 == 第二次世界大戦 == 1916年1月23日にバイエルン王国のアウクスブルクで生まれたバルトは、1936年に軍務に就いた。第二次世界大戦前にパイロットとしての訓練を受け、第255爆撃航空団「エーデルヴァイス」(Kampfgeschwader 255 "Edelweiß":KG 255)に配属された。この部隊は1939年5月1日に第51爆撃航空団(KG 51)と改称された〔ドイツ空軍の部隊名称の説明は「第二次世界大戦中のドイツ空軍の編成」を参照〕。1940年4月1日に部隊内で第II飛行隊(II. Gruppe)が編成されるとバルトは少尉の階級で第4飛行中隊(4. Staffel)に配属された。バルトの初陣はフランス侵攻での飛行場に対してとダンケルクから撤退する船舶への攻撃であったが、これらの戦功でバルトは1940年7月17日に二級鉄十字章を授与された〔Kaiser 2010, pp. 88, 89.〕。 その後KG 51はフランスのエタンプ=モンデジール、パリ=オルリーの飛行場へと駐留基地を移動していった。バトル・オブ・ブリテンではバルトはイギリスのロンドン、コヴェントリー、ポーツマスといった港湾や産業の中心地への数多くの昼夜間攻撃に出撃した。中尉に昇進した後の1941年6月22日のドイツのソビエト連邦への侵攻のバルバロッサ作戦では東部戦線の南部戦域で飛行し、フメリヌィーツィクィイ、リヴィウ、ロストフ、タガンログといった地域で飛行場、鉄道駅や戦車/兵員の集結地を攻撃した。6月25日にDarachow近郊で乗機のユンカース Ju 88 A-5(''Werknummer'' 5254—製造番号)に高射砲の命中弾を受けてバルトは戦闘中に負傷した〔。 1944年2月1日にバルトは当時ヒルデスハイムに駐屯していたKG 51の第IV飛行隊(IV./KG 51)の飛行隊長に任命され、ここで補充搭乗員の戦術訓練を担当した。この飛行隊では当初メッサーシュミット Me 410を飛行させていたが、後にフォッケウルフ Fw190、最後には初めて実戦に参加したジェット戦闘爆撃機であるメッサーシュミット Me262を装備した。5月1日に少佐に昇進したバルトは、1945年3月31日まで第1錬成爆撃航空団(Ergänzungskampfgeschwader 1:EKG 1)/第IV飛行隊と改称された同部隊の指揮官を務め、4月19日にKG 51の航空団司令に就任した。バルト指揮下のKG 51は戦争終結により解隊されるまでオーバーバイエルンで活動した〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ジークフリート・バルト」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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