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ジーン・ディクソン : ミニ英和和英辞書
ジーン・ディクソン[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ジーン・ディクソン : ウィキペディア日本語版
ジーン・ディクソン[ちょうおん]

ジーン・ディクソンJeane Dixon, 1904年1月5日〔David St. Albin Greene, "The Untold Story...of Jeane Dixon", ''National Observer'', 27 Oct 1972〕〔Clauson-Wicker, Su, "Offbeat Attractions", ''Roanoke Times & World News'', Roanoke, Virginia, 17 April 2005, "Displays lead you from Dixon's birth in Wisconsin in 1904 (she liked to say it was 1918)"〕 - 1997年1月25日)は、アメリカ合衆国占星術師である。超能力者と位置付けられることもあり〔、かつて日本ではノストラダムスエドガー・ケイシーなどともに「世界三大予言者」の一人とされていた。
ケネディ暗殺を予言したとして有名になったが、外れた予言も多いことで知られる。そのことから、当たった予言に比べて外れた予言が忘れられがちなために、実際より的中率が高いように思い込まれることが、「ジーン・ディクソン効果」と呼ばれたりしている。なお、彼女の名前は日本では「ジェーン・ディクスン」、「ジーン・ディクスン」などと表記されることもある〔「ジーン・ディクソン」は黒沼 (1964)、スターン (1965)、高橋 (1982)、ディクソン (1983)、ディクソン (1985)、本城 (2012)などに見られる。「ジェーン・ディクスン」はモンゴメリイ (1966)、ディクスン&ウイリアムス (1983)で、「ジーン・ディクスン」は志水 (1997)、山本 (2000) で見られる。〕。
== 生涯 ==

=== 誕生から結婚まで ===
ジーン・ディクソンはウィスコンシン州のドイツ系移民ゲルハルト・ピンカートとエマ・ピンカートの間に生まれた。ディクソンはしばしば1918年生まれとされ、本人もそのように主張していただけでなく〔〔、その生年でパスポートが発行されたことさえあったが〔、かつて彼女自身は宣誓供述書で1910年生まれと述べていたこともあった〔。
ピンカート夫妻の記録を調査したジャーナリスト、ダニエル・セント・アルビン・グリーンなどによると、夫妻の10人の子女の中にはジーンという娘はいないという。その代わり、唯一リディア(リディア・エマ・ピンカート、Lydia Emma Pinckert)という娘の消息だけがつかめなかったということから、おそらくこのリディアがのちのジーン・ディクソンであろうと考えられている〔志水 (1997) pp.139-141〕。しかし、リディアの生年は1904年のことであり、公称されていた生年とはかなり違う〔Denis Brian, ''Jeane Dixon: The Witnesses'', Doubleday & Company, 1976, p147–148〕〔。
彼女の父は南カリフォルニアのサンタ・アナで、映画・テレビのプロデューサーディレクターであったとともに、自動車販売業を営んでいた。ディクソン自身はのちに、自分が8歳の時に ロマの占い師から神秘的な才能を持って生まれたことを告げられ、有名な占い師となり、有力者たちに助言するようになると予言されたという。ディクソンはその女性が使っていた水晶玉を譲り受け、様々な情景を見るようになったと主張していたが、その水晶玉は後に盗まれてしまったという〔ディクソン (1983) pp.62-64, 75-76〕〔高橋 (1982) pp.129-130〕。若い頃のジーンは、女優を目指してハリウッド・ボウルで上演された舞台に出演したこともあり、当時のスタジオ・ポートレートも残されている〔。
なお、サンタ・アナの公文書には、「ジーン・A・ピンカート」という女性が1922年にスイス系移民チャールズ・ズーチャーと結婚したことと、ズーチャーがのちに離婚したことが記録されているという〔〔ズーチャーとの結婚を1922年とするのは志水 (1997) に従っているが、Schneck (2008) p.34 では、ズーチャーとの結婚は1928年のこととされている。〕。しかも、その結婚証明書ではジーンの年齢が22歳とされていて、1904年という記録とさえ齟齬をきたしている〔。この結婚と離婚の話は自伝などには出てこないが、グリーンらの調査に基づく紹介と検証を行なった志水一夫は、彼女がカトリック信徒を標榜していたため、離婚歴は不都合だったのではないかと推測していた〔。
ジーンは、1932年〔この結婚した年は正式に記録されているようだが、他方で彼女は1918年生まれで21歳に結婚したとも主張していた(志水 (1997) p.141)。Schneck (2008)は志水が紹介している異説の方を採って、再婚は1939年(ただし、ジーンの年齢は自称の21歳ではなく35歳)としていた (Schneck (2008) p.34)。〕に離婚歴のあったジェイムズ・ディクソン(当時42歳くらい〔Schneck (2008) p.34〕)と結婚した。
彼は少女時代のジーンが思いを寄せていたことがあったといい〔、カリフォルニアで自動車販売業を営み、のちにワシントンD.C.では不動産販売業を営んだ。ジーンは夫とともに何年も働き、会社の社長として勤務した〔〔"Astrologer, psychic Dixon dies in Washington", ''The Oregonian'', 26 January 1997.〕。夫妻には子供はおらず、のちの1984年にジェイムズと死別することになる〔。第二次世界大戦中には軍人相手のボランティアとして、彼らを占ったりすることがあったという〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ジーン・ディクソン」の詳細全文を読む




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