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スウェルズポイントの戦い()は、南北戦争開戦直後の1861年5月18日から21日に、バージニア州ノーフォークのスウェルズポイントで起きた、北軍砲艦と南軍砲台の砲撃戦である。北軍は砲艦のUSS''モンティチェロ''とこれを支援するUSS''トマス・フリーボーン''の2艦だった。どちらの側にもほとんど損傷は無かった。 4月の末までにUSS''カンバーランド''と少数の支援船がチェサピーク湾の南端でバージニア州南東部の港を海上封鎖し、これを通過しようとした船舶数隻を捕獲していた。砲艦USS''モンティチェロ''がスウェルズポイントの砲台を砲撃したのは、南北戦争で北軍海軍が南軍に対して行った最初期の行動だった。この''モンティチェロ''の行動が、この戦争で北軍による最初の砲撃だったとする資料もあるが、1861年5月7日に、同じくバージニア州ヨーク川のグロスターポイントで、北軍の砲艦USS''ヤンキー''が、まだアメリカ連合国陸軍に組み込まれていなかったバージニア州志願兵の籠もる川岸砲台と、短時間の砲撃戦を交わしていた。これをグロスターポイントの戦いと呼ぶこともある〔資料によってグロスターポイントの戦いの日付は異なる。指揮官の報告書でははっきりと5月7日としている〕〔Rush, Lt. Commander Richard and Robert H. Woods. Naval War Records Office, United States. Navy Dept. ‘’Official records of the Union and Confederate navies in the war of the rebellion’’ Report of Lt. Thomas O. Selfridge to Flag Officer G. J. Pendergrast, May 7, 1861. Washington, DC.: Government Printing Office, 1896. Series 1, Volume 4. . Page 381. Retrieved April 24, 2011.〕。 == 背景 == バージニア州では事実上1861年5月23日に投票を行なっていたが、州会議の決議は4月17日に遡ってアメリカ合衆国からの脱退を決めていた。この日はサムター砦が陥落してから3日後、エイブラハム・リンカーン大統領が連邦政府の資産を取り戻し、南部の反乱を鎮圧するために兵役志願を呼びかけてから2日後のことだった。4月20日の夜に、バージニア州ノーフォークにあるアメリカ海軍ゴスポート造船所(現在はポーツマス市ノーフォーク海軍造船所)の指揮官チャールズ・S・マッコーリーが、反乱に対して造船所を守れないことを怖れ、ワシントンD.C.当局からの指示も無しに、造船所の明け渡しと、USS''メリマック''を含み港外に出て行けない船舶の焼却を命じた。このことで1年以上続いていたアメリカ陸軍によるハンプトン・ローズ南部のノーフォーク地域駐屯が終わった。1861年4月27日、リンカーン大統領は北軍による海上封鎖をバージニア州とノースカロライナ州まで拡大するよう命令した。バージニア州とノースカロライナ州は既にアメリカ連合国に加盟する過程にあったが、実際に加盟したのは5月になってからだった。 バージニア州民兵隊の少将で、1861年5月1日付けバージニア州暫定陸軍〔この軍隊は民兵隊以上のものとし、将来的に南軍に加えるものと考えて州が設立したものだが、南軍の暫定軍ではなく、5月23日のバージニア州脱退まで南軍には加わらなかった。グウィンは暫定南軍の大佐を超えては任官されなかった〕准将のウォルター・グウィンは、元アメリカ陸軍工兵士官であり、また鉄道技師で測量士でもあった。このグウィンが4月下旬から5月始めに、スウェルズポイントを含むノーフォークを守るための砲台建設場所を決め、建設を監督した。グウィンは1861年5月23日に南軍正規部隊によって解任されるまで、ノーフォークの守備を指揮していた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「スウェルズポイントの戦い」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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