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とうきょうスカイツリー駅(とうきょうスカイツリーえき)は、東京都墨田区押上一丁目にある、東武鉄道伊勢崎線の駅である〔とうきょうスカイツリー(旧 業平橋)駅|路線図・駅情報 - 東武鉄道〕。「東武スカイツリーライン」の愛称区間に含まれている〔。駅番号はTS 02〔。 == 歴史 == 東武鉄道が鉄道敷設を申請した1895年(明治28年)4月6日は、東京市本所区から栃木県足利町までの83.7kmで申請をしていた。だが、東京市内にあたる千住 - 本所間は市区改正との兼ね合いから審査に時間を要するとし、やむなく出願を北千住駅以北に縮小した上で、1897年(明治30年)9月3日に本免許を取得した。その直後、1899年(明治32年)1月には北千住駅から越中島までの免許を取得した。そして、1902年(明治35年)4月1日に、当駅は吾妻橋駅(あづまばしえき)として開業し、伊勢崎線の都心側における終着駅となった〔〔計画地の歴史 - 東京スカイツリータウン〕。 ところが、開業から2年後の1904年(明治37年)4月5日に、曳舟駅から東武亀戸線が開業し、亀戸駅を介して総武鉄道両国橋駅(現・総武本線両国駅)への乗り入れを開始することになった〔。ここで、ターミナル駅としての機能が他社の駅である両国橋駅へ移ることになり、当駅は廃止された〔。両国橋駅への乗り入れは、当時の経営陣が総武鉄道と関係が深かったことで実現したものであった。 しかし、1907年(明治40年)9月1日に総武鉄道が国有化されると事態は急変し、東武鉄道は自社のターミナル駅を保有することを迫られた〔東武スカイツリーラインの起点は、上野や新橋になったかもしれない - マイナビニュース〕。越中島への延伸も、当該区間が既に市街化されており、用地買収が困難になっていた。そこで、総武鉄道が国有化されてから6ヶ月後にあたる1908年(明治41年)3月1日に、廃止していた当駅を貨物営業に限り再開し〔、1910年(明治43年)3月1日には旅客営業も再開した〔。旅客営業の再開に伴い、駅名を浅草駅(あさくさえき)に改称した〔。当時、鉄道で当駅に運び込まれた貨物は、ここで舟運に積みかえられ、北十間川から隅田川、中川を通って、広く全国に運び出されていた〔。1911年(明治44年)3月12日には、東武鉄道の本社が両国から小梅瓦町(現・押上)に移転し、東武鉄道の中心拠点としての役割も果たしてきた〔。 その後も東武鉄道は都心側のターミナル駅を求め、当駅から上野駅への延伸計画を申請した〔。この申請は1924年(大正13年)に浅草雷門駅(現・浅草駅)まで認可されたが、浅草雷門駅 - 上野駅間は1919年(大正8年)に東京地下鉄道〔現在の東京メトロ銀座線の浅草駅 - 新橋駅間を運営していた。〕が免許の交付を受けていたため、上野駅までの免許は下りなかった〔。やむを得ず東武鉄道は浅草雷門駅をターミナル駅とする方針へ変更し、1927年(昭和2年)12月15日に延伸工事を開始したものの、隅田川橋梁と浅草雷門駅の設計変更により工期が長引いた。この頃、京成電気軌道(現・京成電鉄)押上線も浅草への延伸を計画していたが、1928年(昭和3年)9月26日に京成電車疑獄事件が起きたことによって、京成電気軌道は浅草への延伸を断念することになった。このような紆余曲折の末、1931年(昭和6年)5月25日に東武鉄道は浅草雷門駅への延伸を果たした〔。この延伸に伴い、駅名を業平橋駅(なりひらばしえき)に改称した〔。延伸後は、旅客営業としてのターミナル駅は浅草雷門駅へ移ることになったものの、当駅は貨物営業としてのターミナル駅としては健在で、都内私鉄の貨物駅としては最大の取り扱い量を記録した。 1962年(昭和37年)5月31日に北千住駅を介して営団地下鉄日比谷線〔現在の東京メトロ日比谷線。直通運転開始当初は人形町駅までの部分開業であったが、1964年(昭和39年)8月29日に中目黒駅までの全線が開業した。〕との直通運転を開始すると、伊勢崎線の旅客輸送は急激に増大した。しかし、浅草駅は構造上の問題で10両編成の通勤電車が発着できず〔〔1番線のみ8両編成に対応するホームであるが、北千住駅寄りの2両はドアカットを要するほどの急曲線上にホームが存在する。他の番線は6両編成が限度である。〕、北千住駅以北を複々線にし、同駅以北の運転本数を増加することで輸送力を賄った〔1974年(昭和49年)に北千住駅 - 竹ノ塚駅間が複々線となったのを皮切りに順次複々線区間を延伸し、2001年(平成13年)に北越谷駅までの18.9kmが複々線となった。〕。それでも、北千住駅の乗換客による混雑は一向に解消されなかったため、1990年(平成2年)9月25日に当駅は電留線の一部を利用して10両編成が停車可能な地上ホームを新設し〔、伊勢崎線の10両編成列車は当駅を始発・終着駅とした〔。また、押上駅への地下連絡通路も新設された〔。 一方で、貨物輸送量は戦時中も減ることがなく、戦後の復興期には更なる増加を記録した。当駅の貨物取り扱い量は1964年(昭和39年)度にピークを迎えた〔東京都統計年鑑 〕が、高度経済成長によって高速道路や国道が相次いで開通し、モータリゼーションが進行したことにより、それ以降は取り扱い量の減少に歯止めがかからなかった。そして、1993年(平成5年)3月25日をもって当駅を発着する貨物列車は廃止された〔。旅客営業に関しても、2003年(平成15年)3月17日に押上駅を介して営団地下鉄半蔵門線〔現在の東京メトロ半蔵門線。直通運転開始当初より、東急田園都市線との3社直通運転を実施している。〕との直通運転を開始したことに伴い、地上ホームと押上駅への地下連絡通路が廃止された〔。 これにより、旧貨物ヤードの跡地には60,000m2を越える用地が創出され、2004年(平成16年)からは、旧貨物ヤードを中心に都市再開発(押上・業平橋駅周辺土地区画整理事業)が開始された〔施設概要・開発の経緯 - 東京ソラマチ〕。同年12月には墨田区・地元関係者が東武鉄道に対して新タワー誘致の協力要請をし〔、2005年(平成17年)2月に東武鉄道が新タワー事業に取組む事を放送事業者・墨田区に表明した〔。同年3月には都市計画が決定され、放送事業者が墨田区押上地区を第1候補に選定した〔。そして、2006年(平成18年)3月に新タワー建設地として当地区が最終決定され、東京スカイツリーを核とした、東京スカイツリータウンの開発が行われるようになった〔。 東京スカイツリータウンは2012年(平成24年)2月29日に竣工し〔東京スカイツリー完成!5月22日オープン - 日テレNEWS24〕、開業を直前に控えた同年3月17日のダイヤ改正では、当駅に初めて特急列車が停車するようになった〔 - 東武鉄道ニュースリリース 2011年10月11日〕〔この時に行われたダイヤ改正では、快速・区間快速は従来通り通過の措置がとられたが、2013年(平成25年)3月16日のダイヤ改正で快速・区間快速も停車するようになり、すべての一般列車が停車する駅となった。〕。併せて、駅名をとうきょうスカイツリー駅(とうきょうスカイツリーえき)に改称した〔 - 東武鉄道ニュースリリース 2010年12月27日〕〔 - 東武鉄道ニュースリリース 2012年1月26日〕〔東武鉄道の駅名改称は1987年(昭和62年)に玉ノ井駅が東向島駅に改称して以来25年ぶり。また駅周辺の施設開業による改称は、1981年(昭和56年)に東武動物公園の開園を控えた最寄り駅の杉戸駅が東武動物公園駅に改称して以来31年ぶり2駅目。〕。なお、地元の親しみやすさを維持するため、改称後は「旧業平橋」の名称も併記している〔同線では東向島駅(旧玉ノ井)を同様の表記としている。こちらは住所表記の変更による駅名の改称である。〕〔なお、同線には前述の東武動物公園駅、春日部駅(旧粕壁)、北越谷駅(旧越ヶ谷→旧武州大沢)なども改称しているが、いずれの駅も旧駅名は併記されていない。〕。同年4月20日には駅構内のリニューアル工事が完了し〔、同年5月22日に東京スカイツリータウンが開業してからは〔、当駅はその最寄駅の一つとなっている〔アクセス - 東京スカイツリータウン〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「とうきょうスカイツリー駅」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Tokyo Skytree Station 」があります。 スポンサード リンク
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