|
スキップ・ヤング(Skip Young、本名:Galton W. Young、1951年7月24日 - 2010年12月3日)は、アメリカ合衆国のプロレスラー。テキサス州ヒューストン出身のアフリカ系アメリカ人。生年は1956年ともされていた〔『新日本プロレス 来日外国人選手 PERFECTカタログ』P72(2002年、日本スポーツ出版社)〕。 スウィート・ブラウン・シュガー(Sweet Brown Sugar)のリングネームでも知られる。正面飛び式およびスクリュー式のドロップキックなど、跳躍力を活かした空中殺法を武器に、ジュニアヘビー級の黒人ベビーフェイスとしてアメリカ南部を主戦場に活躍した。 == 来歴 == 1970年代中盤にスキップ・ヤングのリングネームでデビュー、フリッツ・フォン・エリックが主宰していた地元テキサスのダラス地区(後のWCCW)を皮切りに、中西部のセントラル・ステーツ地区、エディ・グラハム主宰のフロリダ地区など、NWAの主要テリトリーを転戦してキャリアを積んだ〔。 1979年、フロリダで覆面レスラーのスウィート・ブラウン・シュガーに変身。ダスティ・ローデスやボボ・ブラジルのパートナーとなり、キング・イヤウケア、キラー・カーン、パク・ソン、ジョー・ルダック、ソー・ザ・ヴァイキング、バグジー・マグロー、レロイ・ブラウンなど、スーパーヘビー級の巨漢ヒールとも激闘を展開した。同年9月29日にはブラジルとのコンビでミスター・サクラダ&ミスター・ヒトからフロリダ・タッグ王座を奪取、シングルでは10月26日にアーニー・ラッドを下して南部ヘビー級王座を獲得している。 1979年はフロリダを主戦場としつつ、素顔のスキッピー・ヤングとしてカリフォルニア州のロサンゼルスにも遠征し、8月10日に藤波辰巳のWWFジュニアヘビー級王座に3本勝負で挑戦。タイトル奪取はならなかったものの、得意の正面飛び式ドロップキックで藤波から1本奪っている。翌1980年1月には新日本プロレスにスキップ・ヤング名義で初来日、藤波への挑戦権を賭けてダイナマイト・キッドとも対戦したが、キッドのダイビング・ヘッドバットに敗れた。 1980年の下期より古巣のダラス地区に戻り、フロリダ時代と同じく黒人マスクマンのスウィート・ブラウン・シュガーとして活動。同年8月1日、故郷ヒューストンにてケリー・フォン・エリックと組み、キラー・ブルックス&スタン・スタージャックを破ってNWAテキサス・タッグ王座を獲得した。フロリダへの参戦も続け、1981年2月4日にディック・スレーターから南部ヘビー級王座を奪取、同王座への2度目の戴冠を果たした〔。1982年1月にはダラスとの提携ルートで全日本プロレスに来日、ミル・マスカラスとのマスクマン対決も実現した。 以降はスウィート・ブラウン・シュガーのリングネームはそのままに、覆面を脱いで素顔に戻って活動。主戦場のフロリダでは1982年4月にレイ・スティーブンスからTV王座を奪取、同月11日にはブッチ・リードとの黒人コンビでドリー・ファンク・ジュニア&デビッド・フォン・エリックを破り、フロリダ版のNWA北米タッグ王座を獲得した。1983年はテキサスのサンアントニオ地区に登場。アドリアン・アドニス、タリー・ブランチャード、ボビー・ジャガーズ、ルーク・ウィリアムスらヒール勢と対戦した。 1984年はテネシー州メンフィスのCWAに参戦し、ペッツ・ワトレーと組んでココ・ウェア&ノーベル・オースチンのプリティ・ヤング・シングスと黒人タッグ抗争を展開(ココ・ウェアもかつて「スウィート・ブラウン・シュガー」を名乗っていたことがある)〔。1987年はダラスのWCCWにて、ブッカーのゲーリー・ハートのアイデアでトニー・アトラスともタッグチームを結成した〔。 その後、ココ・ウェアの仲介でWWFと契約する話もあったが実現せず〔、1990年代初頭はキラー・ブルックスが旗揚げしたダラスのインディー団体NAWAで活動。ベテランのジョバーとしてWCWのショーにも出場した。プエルトリコのWWCにも遠征し、1996年1月にTV王座を獲得している。 引退後は父の後を継いで説教師に転身した〔。2010年12月3日、テキサス州ダラスにて死去〔。。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「スキップ・ヤング」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|