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スキャラワグ()は、アメリカ合衆国の南北戦争が終わった後のレコンストラクション時に、元アメリカ連合国に入っていた南部で共和党員となった白人のことである。この言葉は元々軽蔑的な意味があり、字義では「やくざな奴」という意味があったが、21世紀の学者や参考書でも書き言葉として使われている。戦後のスキャラワグは戦中に南部にいたアメリカ合衆国維持派に重なるが、明確な集団をなしていた訳ではなかった。 スキャラワグは解放された人々(元奴隷の黒人)や北部からやってきた者達(やはり軽蔑的にカーペットバッガーと呼ばれた)との連携を取り、州や地方政府の支配権を取った。この連携による支配はバージニア州を除いた元アメリカ連合国各州であり、1866年から1877年の間、州によって期間は異なるが続いていた。スキャラワグの中でも著名な人物は、ロバート・E・リーに続く上級将校であったジェイムズ・ロングストリートと、戦時にジョージア州知事であったジョセフ・ブラウンであった。アメリカ連合国を支持していなかった者は。1867年のレコンストラクション法に基づく「鉄の誓い」を行うことで選挙権や被選挙権が認められた。1870年代、多くの者が共和党から保守的民主党連合に鞍替えし、リディーマー(字義では買い戻す人)と呼ばれた。保守的民主党は1877年までにすべての南部州で共和党から支配権を取り戻した。 == 政治活動 == 1961年、歴史家のジョン・ホープ・フランクリンは南部にいたアメリカ合衆国維持派の動機を評価した。フランクリンは、多くの南部人が投票権や政治参加を許されるにつれて次のようになったと述べている〔Franklin p. 100〕。 アラバマ州では、スキャラワグが共和党を支配した〔Wiggins 131-38〕。1868年から1881年の間、117名の共和党員が州の行政職、司法官および連邦議会や連邦裁判所の中でも最も魅力があり重要なポストに候補となり、選出され、指名された。その中には76名の南部白人、35名の北部人および8名の黒人が含まれた。レコンストラクションの間の州政府では、南部白人が特に支配的となった。51名が候補者となったが、カーペットバッガー11名や黒人1名に比して大きな比率であった。スキャラワグでは27名が州の行政職に(75%)、24名が司法官に(89%)推薦され、101名がアラバマ州議会議員に(39%)選ばれた。しかし、連邦政府の役職に選ばれたスキャラワグは少なかった。連邦議会に推薦あるいは選ばれたスキャラワグは15名(48%)であり、カーペットバッガー11名、黒人5名に対し比率は落ちていた。1867年の州憲法制定会議の代議員となったスキャラワグは48名(連邦党員の49.5%)であり、1875年の憲法制定会議では7名(勢力の落ちた共和党では58%)であった。 サウスカロライナ州には約10万人のスキャラワグがおり、白人人口の約15%に相当した。共和党の全盛時には、裕福な白人を惹き付け、特に心を開いた民主党員と責任ある共和党員の間の協調を恃む中道の者が多かった。歴史家のハイマン・ルービンは、共和党の崩壊が党の支配を特徴づけるようになった政治腐敗と党派抗争という不穏な傾向から生まれたとしている。これらの失敗が北部人を失望させて1876年に州共和党を棄てさせ、ウェイド・ハンプトンが指導する民主党が保守的支配を取り戻した。北部人は多くの共和党員に静かにしているかあるいは民主党に鞍替えするかさせるために暴力的な脅しすら使った〔Rubin 2006〕。 最も著名なスキャラワグはミシシッピ州のジェイムズ・ラスク・アルコーンであった。1865年にアメリカ合衆国上院議員に選ばれたが、全ての南部人と同様に、議会がレコンストラクションを検討している間は議席を得られなかった。議会で共和党が提案した解放された人々の参政権を支持し、アメリカ合衆国憲法修正第14条に賛成した。アルコーンは州議会で3分の1を構成し、カーペットバッガーや解放された人々と連携するスキャラワグの指導者となった。1869年には共和党員によって知事に選ばれ、1870年から1871年までその職にあった。近代化を進めるために、元ホイッグ党の志を同じくする者を、それが民主党員であっても指名し活用した。強く教育の改革を進め、黒人のみの公的学校や州立アルコーン大学と呼ばれる黒人のための大学設立に動いた。その学長のハイラム・レベルズを味方にして推進した。急進的共和党員はアルコーンに対抗し、その後援会政策には怒った。ある者は、アルコーンの政策が政治、社会、経済の総合的改革よりも「南部の古い文明の近代化」を目指しているとこぼした〔Quoted in Eric Foner, ''Reconstruction'' (1988) p 298. 〕。 アルコーンは上院議員(1871年-1877年)になるために知事を辞職し、ハイラム・レベルズと入れ替わった。レベルズはアメリカで初めてのアフリカ系アメリカ人上院議員であった。上院議員になってからは南部白人が政治的に制限されていた状態の撤廃に動き、連邦議会で急進的共和党が提案する社会的平等の強制には反対した〔 (''Congressional Globe'', 42 Cong., 2 Sess., pp. 246-47〕。綿花に課税する連邦法を泥棒と非難し〔Ibid., pp. 2730-33〕、ミシシッピ州での人種を隔離した学校を擁護した。アルコーンは元奴隷所有者であったが、奴隷制を「国という体のガン」と表現し、自分や他の多くの南部人がそれを無くしたことについて感じる満足を表明した〔Ibid., p. 3424〕。 アルコーンはミシシッピ州共和党で他の派閥を率いるカーペットバッガーのエイデルバート・エイムズ上院議員と激しい政争を演じた。黒人の大半はエイムズを支持し、レベルズなど多くがアルコーンを支持したので党内に亀裂が生じた。1873年、両者は知事職を勝ち取ることで決着を求めた。エイムズは急進派共和党員とアフリカ系アメリカ人の大半に支持され、アルコーンは保守派白人とスキャラワグの大半の票を集めた。結果はエイムズが69,870票対50,490票で勝利し、アルコーンは州の政治から引退した〔Pereyra 1966〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「スキャラワグ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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