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スキタイ(Scythae, Skythai, 希: )は紀元前8世紀~紀元前3世紀にかけて、ウクライナを中心に活動していたイラン系〔ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典『スキタイ』〕〔「イラン語派」『言語学大辞典』第1巻, pp. 675–676.(亀井孝他編著、三省堂、1988年3月。ISBN 978-4-385-15215-8)〕遊牧騎馬民族および遊牧国家。スキュタイ、スキュティア人、スキティア人ともいい、その地をスキュティア、スキティアと呼ぶ。「スキタイ」は古代ギリシア人によってこの地域の諸部族をまとめて指す際に使われた呼称でもあり、スキタイが滅んだ後も遊牧騎馬民族の代名詞として「スキタイ」の名は使われ続けた。'')は紀元前8世紀~紀元前3世紀にかけて、ウクライナを中心に活動していたイラン系〔ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典『スキタイ』〕〔「イラン語派」『言語学大辞典』第1巻, pp. 675–676.(亀井孝他編著、三省堂、1988年3月。ISBN 978-4-385-15215-8)〕遊牧騎馬民族および遊牧国家。スキュタイ、スキュティア人、スキティア人ともいい、その地をスキュティア、スキティアと呼ぶ。「スキタイ」は古代ギリシア人によってこの地域の諸部族をまとめて指す際に使われた呼称でもあり、スキタイが滅んだ後も遊牧騎馬民族の代名詞として「スキタイ」の名は使われ続けた。 == 歴史 == === 起源 === 古代ギリシアの歴史家ヘロドトスは著書『歴史』において、スキタイの起源に関する説をいくつか挙げている。 ; スキタイによる伝説 * 当時、無人の境であった彼らの国土に最初に生まれたのは、タルギタオスという名の男であった。彼の両親はゼウスとボリュステネス河(現:ドニエプル川)の娘とであったという。タルギタオスからはリポクサイス、アルポクサイス、コラクサイスの3子が生まれた。この3人が支配していた時代に、天から黄金の器物がスキティアの地に落ちてきて、長兄が一番にこれを見つけ、それを取ろうとして近づいたところ、その黄金が燃えだした。長兄が離れた後、次兄が近づくと、黄金はまた燃えだした。最後に末弟のコラクサイスが近づくと火は消え、持ち帰ることができた。これによって長兄と次兄はコラクサイスを王に推戴することにした。以後、長男のリポクサイスを始祖とするアウカタイ氏、次男のアルポクサイスを始祖とするカティアロイ氏とトラスピエス氏、三男のコラクサイスを始祖とする王族パララタイ氏の4氏族が形成されることとなり、彼らの総称は王の名にちなみ、スコロトイと呼ばれるようになった。コラクサイスは広大なスキュティアの国土を3つの王国に分け、自分の息子たちに所領として分け与え、そのうちの一国を特に大きくして黄金の器物を保管した。 ; 黒海地方在住のギリシア人による伝説 * ヘーラクレースはゲーリュオーン〔ゲーリュオーン(ゲリュオネウス)は三頭三体の怪物で、ヘーラクレースによって退治された。ヘーラクレースはゲリュオネウスの飼っていた牛の群れをギリシアへ持ち帰ったという。また、12苦行の一つにも数えられる。〕の牛を追いながら、当時は無人であったスキュティアの地にやって来た。ところが、折からの冬季で酷寒に見舞わされ、ヘーラクレースはライオンの皮を引被って眠ってしまった。するとその間に草を食べていた馬がいなくなってしまったため、ヘーラクレースは目を覚ますなり馬を探しまわった末、ヒュライアという土地にやってきた。ヘーラクレースはこの地の洞窟で上半身は娘の姿で、下半身が蛇の姿である怪物と遭遇し、初めは驚いたものの、その蛇女に「迷った馬を見なかったか」とたずねてみた。すると蛇女は「馬は私の許にあるが、そなたが私と交わってくれぬかぎり馬を返さん」と言うので、ヘーラクレースは渋々了承し、しばらく同棲したあと馬を返してもらった。しかし蛇女の腹には3人の子供が身ごもられており、蛇女はヘーラクレースにこの子供をどうするか訊ねた。するとヘーラクレースは弓と帯を使って自分の示した仕草をした者をこの地に住まわせ、できなかった者を追放せよと蛇女に伝え、弓と金の盃のついた帯を渡して去っていった。やがて3人の子供が成人になると、蛇女はヘーラクレースに言われた通り、例の儀式を行った。長男のアガテュルソス、次男のゲロノスはヘーラクレースが示した仕草をできずに国を放逐されたが、三男のスキュテスは見事ヘーラクレースが示した仕草ができたので、国に留まり、王になることができた。以後、スキュテスの子孫が代々王となり、スキティア人は帯に盃をつけるようになった。 ; ヘロドトスが信を置く説 * スキタイはもともとアジアの遊牧民であったが、マッサゲタイに攻め悩まされた結果、アラクセス河〔通常アム川を指すが、ここではヴォルガ川を指す。〕を渡り、当時のキンメリア地方に移ったという。当時のキンメリア(キンメリオイの地)は現在(ヘロドトス当時)のスキュティア(スキタイの地)とされているので、この時キンメリアはスキタイによって奪われ、スキュティアと呼ばれることとなった。 ; アリステアスの説 * プロコンネソス出身でカユストロビオスの子であるはその作詩した叙事詩において、東方の(一眼族)がイッセドネス人を追い払ったせいでスキタイがイッセドネス人によって追われ、そのせいでスキタイがキンメリオイを追い払ってその地に居座ったとしている。 最初の2説は少々異なるものの、3兄弟の末弟が王位を継ぐという点では似通っており、伝説といえどもそういうことがあった可能性がある。それよりもヘロドトス自身が「最も信を置く」と記している第3の説や第4の説はスキタイの東方起源説を思わせる記述なので、注目すべき説である。 〔松平訳 1982, pp. 178-180.(ヘロドトス『歴史』4巻5-13)〕 また、紀元前1世紀のギリシア史家ディオドロスも『歴史叢書』でスキュタイの起源についてふれている。 * 初め、アラクセス(ヴォルガ)河畔にわずかな部族が住みついただけであったが、あるとき戦好きで統帥力のある王が現れ、南はカウカソス(コーカサス)山脈、東は大洋オケアノス沿岸、西はタナイス(ドン)川に至る範囲をその版図とした。 * スキュタイの中にひとりの処女が大地から生まれたが、彼女の上半身は人間、下半身は蛇の姿であった。ある時、ゼウスが彼女と交わって男児をもうけ、スキュテスという名前をつけた。スキュテスはやがて名を挙げたため、彼の部族はスキュタイと呼ばれるようになった。後に彼の子孫からパロス,ナペス兄弟が現れ、王国を二分(パロイ,ナパイ)するほど強盛となった。さらに彼等の子孫から優れた諸王が生まれ、タナイス対岸の地域を支配し、トラキア,エジプトにまで遠征するようになった。その他、サカイ,マッサゲタイ,アリマスポイといった諸族が分岐していった。 〔飯尾 1999, pp. 181-182.〕 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「スキタイ」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Scythians 」があります。 スポンサード リンク
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