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スキーフライング[ちょうおん]
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スキーフライング[ちょうおん]
スキーフライングはスキージャンプの一種でK点170m、ヒルサイズ185m以上のジャンプ台〔Standards for the Construction of Jumping Hills 2008 〕を使用して行われる競技である。 この規模のジャンプ台を「フライングヒル」と呼称し、またこの台で行われる種目も「フライングヒル」と呼称される。 その歴史は1934年、スタンコ・ブロウデクがユーゴスラビアのプラニツァに100mの飛行を可能にするブロウトコヴァ・ヴェリカンカジャンプ台を建設したことに始まる。1936年3月15日にオーストリアのヨーゼフ・ブラドルが史上初めて大台を超える101mのジャンプを成功させた。 1950年代に入ると西ドイツのオーベルストドルフやオーストリアのタウプリッツにも150mの飛行が可能なジャンプ台が建設された。 1972年に国際スキー連盟(FIS)主催のスキーフライング世界選手権が開始され、1979-1980シーズンにスキージャンプ・ワールドカップが始まるとその中の1種目とされた。 1994年3月17日にフィンランドのトニ・ニエミネンが史上初めて200mを超えるジャンプを成功させた。現在の最長記録はノルウェーのアンデシュ・ファンネメルが記録した251.5mである。 ==歴史==
===飛距離の追求と100mジャンプ===
20世紀初頭のスキージャンプはノルウェーの選手が圧倒的に強かった。この頃ジャンプの飛距離は多くがアメリカ合衆国の整備されたジャンプ台で更新されたが、主催者はノルウェーの優秀なジャンパーを招いて競技を開催した。 1913年、ノルウェー出身のラグナー・オムトベット(Ragnar Omtvedt)がアイアンウッドのジャンプ台で史上初めて50mを超えた。1931年にはシグムント・ルートがスイスのダボスで80mを突破した。 1931年、ユーゴスラビアのエンジニア、スタンコ・ブロウデク(Stanko Bloudek)がこれまでよりはるかに大きなジャンプを可能にするジャンプ台を計画した。クラーニ近郊のプラニツァに建設されたブロウトコヴァ・ヴェリカンカは現在の規格に当てはめると建築基準点(K点)が108mになる巨大なジャンプ台であった〔Wolfgang Wünsche: ''Wo liegt die Grenze beim Skiflug?'' ドイツディー・ツァイト紙 1967年2月10日付、2011年5月8日閲覧〕。 当時のFISの規定ではジャンプ台に設定された限界距離(極限点、K点)を8パーセント超える飛距離が出るとスタート位置を下げて飛距離を抑えることとなっており、1936年2月に限界距離の最大は80mと定められた。すなわち80+80×0.08=86.4m以上のジャンプは公認されなかった[''Tiefer Sturz'' ドイツデア・シュピーゲル誌 1967年3月20日付、2011年5月8日閲覧〕。] 1934年3月25日、ブロウトコヴァ・ヴェリカンカでノルウェーのビルゲル・ルートが初めて90mの大台を超える92mを飛んだ〔プラニツァ国際大会表彰台(PDFファイル) 〕〔シグムント・ルート: ''Skispur krysser verden.'' 1938 (deutsch: ''Skispuren kreuzen die Welt''. Übersetzt aus dem Norwegischen von Werner von Grünau. Hans von Hugo Verlag. Berlin 1939). Page78–93: ''Planica, größte Skisprungschanze der Welt''〕。 1936年までに全体的に50m上方に移動され、K点が120mとなった〔。 限界距離が80mより大きいジャンプ台はFISにより使用禁止となったが、1936年3月のプラニツァの大会は開催された。ノルウェーの選手は協会からこの大会への参加を止められた。 1936年3月15日の大会ではオーストリアの17歳の新鋭ヨーゼフ・ブラドルが史上初めて100mの大台を突破する101mを記録した〔''Internationale Skiflugvereinigung KOP im Wandel der Zeit Gestern - Heute - Morgen'' auf cms.kop-skiflying.org. Referat von Kurt Kreiselmeyer, Oberstdorf anlässlich der KOP-Generalversammlung am 22. Juni 1996 in Harrachov. 2011年5月11日閲覧〕。 FISによって規制された直後に記録されたこのジャンプが今日、「スキーフライング」の始まりと認識されている〔Erwin Dittberner: ''Flug ohne Flügel. Sepp Bradl springt 101 Meter in Planica.'' In: Heinz Eil, Erwin Dittberner und Joachim Böttcher: ''Die Sportwelt hielt den Atem an''. Verlag Weidlich. Frankfurt am Main 1968. Page121–126.〕。 この大会に参加できなかったノルウェーのシグムント・ルートは1938年に出版した自叙伝でブロウトコヴァ・ヴェリカンカを「ここは人間が自らその身を投げ出す最大の奈落の底である」と評している〔。 ブロウトコヴァ・ヴェリカンカが建設される数年前の1927年、スイスのエンジニアであるラインハルト・シュトラウマン(Reinhard Straumann)がスキーフライングの基礎研究に空気力学計算を取り入れて構築した〔Kurt Schauppmeier: ''Das Buch vom Wintersport''. Stadion Verlag München. Page58–72〕。 1936年になって風洞実験によって得られた知見を用いてブロウトコヴァ・ヴェリカンカが改修され、ユーゴスラビアスキー連盟のメンバーはスキージャンプからスキーフライングを独立させるルールを提案した。この提案をFISは考慮しなかった。 このため、彼らはその時点で協会のジャンプ委員会のメンバーだったシュトラウマンにスタンコ・ブロウデクとの接触を依頼した。 これを受けてFISはスキーフライングを「実験」とみなして、シュトラウマンが空気力学に関する研究を推進するための手法として理由付けした。 その結果1938年にブラドルが107.0mの新記録を樹立し、国際スキー連盟は、プラニツァのフライング台の規制を解除した〔。しかしそれ以外のジャンプ台については引き続き極限点80mの基準が残された。 1941年にはドイツのルドルフ・ゲーリング(Rudi Gehring)が118mに記録を伸ばした。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「スキーフライング」の詳細全文を読む
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