翻訳と辞書
Words near each other
・ スコット・スピードマン
・ スコット・スミス
・ スコット・スミス (フィギュアスケート選手)
・ スコット・スミス (小説家)
・ スコット・スミス (格闘家)
・ スコット・ソーマン
・ スコット・タロー
・ スコット・ダイアモンド
・ スコット・ダイヤモンド
・ スコット・ダウンズ
スコット・ダモール
・ スコット・チアソン
・ スコット・チッパーフィールド
・ スコット・チャイアソン
・ スコット・ディクソン
・ スコット・デイビス
・ スコット・デイヴィス
・ スコット・デイヴィス (フィギュアスケート選手)
・ スコット・デイヴィソン
・ スコット・デリクソン


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

スコット・ダモール : ミニ英和和英辞書
スコット・ダモール[ちょうおん]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

スコット・ダモール : ウィキペディア日本語版
スコット・ダモール[ちょうおん]

スコット・ダモール(''Scott D'Amore''、1974年8月8日 - )はカナダプロレスラー。本名スコット・フランシス・ダモール(''Scott Francis D'Amore'')。プロレスラーながらブッカー、トレーナー、マネージャーといった裏方業も得意としている。
==来歴==
1991年、ダモールは19歳のときにダグ・シュバリエとトレーニングを開始している。1992年6月にオンタリオ州アマーストでオーティス・アポロを相手にデビュー。1993年に"アイリッシュ"ミッキー・ドイル、デニー・カスアル・スノーの元でさらにトレーニングを積んでいる。1993年から1996年初頭までWWFWCWでエンハンスメント・タレントとして活動し、WCWで活動しているときはWCWパワープラントで頻繁にトレーニングをしていた。ダモールはインディー団体でも活動するようになる。1995年にダモー
ルはワールド・カップ・オブ・レスリング(''World Cup of Wrestling'')のツアーでドイツへ赴き、1996年にはレスリング・アソシエーション・アール(''Wrestle Association R'')のツアーで日本、イングリッシュ・レスリング・フェデレーション(''English Wrestling Federation'')のツアーでイングランドにも行っている。96年の後半にはデイブ・クラークとタッグを組んでいる。また、カナダの団体でブッカーとプロデュサーとして活動するようになる。
1993年にダグ・シュバリエとチック・フェーダーと共にボーダー・シティ・レスリング(''Border City Wrestling'')をオンタリオ州ウィンザーに設立する。94年にシュバリエが離脱し、2000年にフェーダーが病気で退くとダモールが単独オーナーとなった。2000年2月にライノシンジケート(''The Syndicate'')を結成、ディーロ・ブラウンを破っている。シンジケートは最終的に"アロージェント"オティース・アポロ、ジョニー・スウィンガー、ファンタスティー、ドン・キャリスを加えるまで拡大していった。ボーダー・シティ・レスリングは2000年後半に一時的に停止するが2001年に再始動している。2001年最初のBCWの興行ではトミー・ドリーマージョニー・スウィンガー、マイキー・ホワイプウェレック、サブゥー、ドン"サイラス"コールズ、ノヴァといった元ECWの選手を招集している(ダモールが1998年にECWのトライアウトを受け、ECWの選手と仲良くなった事から召集が可能だった)。プロモーションとレスリングに加え、Can-Amレスリングスクールでレスラーを育成するようにもなり、教え子のA-1とも抗争している。BCWからは2004年から2007年の間遠ざかるが、2008年になるとBCWのイベントを定期的に開催するようになった。
2003年に教え子のクリス・セイビンを引き連れてTNAに参戦、ダモール自身はロードエージェントとして活動するようになる。2004年になるとチーム・カナダのコーチに抜擢されコーチ・ダモール(Coach D'Amore)と呼ばれるようになったが、マイク・テネリにはビッグ・ファット・ロード(''big fat load'')やカナディアン・ベーコン (''Canadian bacon'')と呼ばれていた。ダモーレはジェリー・リンダスティ・ローデスダスティン・ローデスとの抗争でチーム・カナダを勝利に導くようになる。この時期にTNAのバックステージでも活動するようになり、クリエイティブ・チームの一員になったり、TNAアカデミーでテリー・テイラーとトレーナーとしても活動したりするようになった。
2005年6月のSlammiversaryでランス・ホイットチョークスラムムーンサルトプレスをくらいストレッチャーで病院に運ばれている。これはダモールは5月にTNAのブッキングチームに加わるとレスラーとしての活動が減り、テレビの出演が少なくなるためのアングルである。復帰するとチーム・カナダはジェフ・ジャレットの配下になっている。11月のGenesisでクリスチャン・ケイジがチーム・カナダに加入、その後ジェフ・ジャレット、アメリカ・モスト・ウォンテッドライノチーム3Dの試合にクリスチャンと乱入しているが、クリスチャンはダモールにアンプリティー、ジャレットをテーブルに投げチーム・カナダから即離脱している。
7月にライノ、チーム3D、ジェイ・リーサルに負けチーム・カナダの解散が決定するとテレビに出演しなくなっている。2年間はゲイル・キムのロード・エージェントを担当していたがTNAとの契約期限切れにより7月に古巣のBCWへ戻っている。2009年8月にノック・アウツ部門のロード・エージェントとして雇われているが2010年2月にBCWがマキシマム・プロレスリング(''Maximum Pro Wrestling'')と合併し、BSE WrestlingになるためにTNAから離脱している。
2014年8月に新日本プロレスにジェフ・ジャレットのマネージャーとして供に来日。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「スコット・ダモール」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.