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スタックリッジ : ミニ英和和英辞書
スタックリッジ
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。


スタックリッジ : ウィキペディア日本語版
スタックリッジ

スタックリッジ(''Stackridge'')はイギリスバンド1970年代初期に成功を収めた。
== 来歴 ==

=== 古典期 ===
1969年、英国のブリストル/バース地域で、アンディ・デイヴィスとジェームス‘Crun’ウォルターによってスタックリッジレモンが結成された。レモンという言葉はすぐにバンド名から落とされた。1970年2月6日にウォーダー街にあるザ・テンプルで初めてロンドン・ギグを敢行。 スタックリッジは、1970年9月19日・20日に行われた初のグラストンベリー・フェスティバルでオープニングとクロージングのライブを担当した。 1970年の間、ブリストルのクリフトン「32・ウエストモール」にあるコミュニティ・フラットをバンドの本拠地としてシェアした。後に、デイヴィスとウォーレンはデビューアルバムに収められた曲のタイトルとしてその住所を使用した。
1971年、ライブで演奏を重ねたが、ウォルターが煉瓦積みの職に就き脱退。 グループ(デイヴィス、ウォーレン、ベント、エヴァンス、スレイター)は、ウィッシュボーン・アッシュの英国ツアーをサポートした。その年の内に彼らはMCAレコードとサインを交わし、デ・レーン・リー・スタジオ(ロンドン)で最初のアルバム『スタックリッジ』をレコーディングした。彼らはルネッサンスをサポートに迎えての英国ツアーを行い、BBCのために初のジョン・ピール・セッションを行った(ビートルズの「ノルウェーの森」のカバーを含む)。
再びウィッシュボーン・アッシュと組んだり、フォーエヴァー・モア(アヴェレージ・ホワイト・バンドの前身)と組んだりしながら、グループは1年間ツアーを継続。2枚目のアルバム『フレンドリネス』は1972年8月に短期間でレコーディングされ、11月にはリリースされた。そこにはスタックリッジ結成頃に世に出た何曲かの歌が含まれている。この時までにウォルターが再加入し、ラインナップはデイヴィス、ウォーレン、スレイター、エヴァンス、ウォルター、ベントとなった。
1973年2月、BBC2の番組「オールド・グレイ・ホイッスル・テスト」にてテレビ初出演をした。それから、キャメルのサポートで、2月と3月にツアーを行った。3枚目のアルバム『山高帽の男』は、1973年の間にロンドンのAIRスタジオで、プロデューサーのジョージ・マーティンと共にレコーディングされた。アルバムは批評家の賞賛を受けながら1974年2月に発売されたが、大きなヒットには恵まれなかった。しかし、本作が英国で23位に達する、彼らの最も高いチャート・アクションを見せたアルバムだった。このアルバムの異なるヴァージョンが『Pinafore Days』のタイトルで米国リリースされ、唯一、米国チャートで191位に入る作品となっている。しかしながら米国ツアーは実現しなかった。ほとんどアルバム制作が終わるや否や、アンディ・デイヴィスのコントロールの元で大幅なメンバー・チェンジがなされ、ポール・カラス(ベース、元レア・バード)、キース・ジェメル(サックス等、元オーディエンス)、ロイ・モーガン(ドラムス)らが加入。アルバムに伴うツアーを行ったグループは、レコードとまったく異なるように聞こえた。
エルトン・ジョンのレーベル、ロケット・レコードから出た4枚目のアルバム『エクストラヴァガンザ』はトニー・アシュトンのプロデュースの元、再びAIRスタジオでレコーディングされた。作詞作曲にも関わっていくロッド・ボウケットが加入。メンバー構成はデイヴィス、ウォーレン、ボウケット、ジェメル、カラスに、復帰したスレイター、エヴァンスとウォルターという布陣になった。外部の人間(ゴードン・ハスケルら)の書いた楽曲をカバーするなどし、より一般的な作品となった。 ツアーを重ね、エルトン・ジョン、ビーチボーイズらとのウェンブリー・スタジアムでのコンサートに出演するなどし、1975年に5枚目のアルバムのレコーディングに着手。それがコンセプトアルバム『ミスター・ミック』だった。スティーヴ・オウガードなる人物による物語/詩に基づいて、ランポート・スタジオ(パットニー)で収録。デイヴィス、スレイター、ウォルター、ジェメルに加え、キーボード演奏に元グリーンスレイドのデイヴ・ローソン、ドラムにピーター・ヴァン・フックという修正されたラインナップによってレコーディングされた。
ロケット・レコードは『ミスター・ミック』に対してかなりの編集を行い、ビートルズのカバー曲「ホールド・ミー・タイト」を収録させた。アルバムはいくつかの良いプレス評を受けたが、ステージがあまりに小さいという理由で、何回かのショーは中止となった。バンドが崩壊した直後、1976年4月に最後のライブを行った。MCAレコードは1976年末に『Do the Stanley』という編集盤をリリース。それは最初の3枚のアルバムからの曲と、シングル曲、そして未発表曲「Let There Be Lids」(ライブ音源)を含んでいた。
スタックリッジは、1977年に解散を公式発表した。ジェームス・ウォーレンとアンディ・デイヴィスは、数年後にコーギスを結成し、1980年代初期、わずかながら商業的成功を手にした。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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