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スティーナ・ノルデンスタム : ミニ英和和英辞書
スティーナ・ノルデンスタム[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

スティーナ・ノルデンスタム : ウィキペディア日本語版
スティーナ・ノルデンスタム[ちょうおん]

スティーナ・ノルデンスタム(、1969年〔 - )は、スウェーデンの歌手。1991年に『メモリーズ・オブ・ア・カラー』でデビューした〔。ストックホルム生まれ〔。殺人など幅広いテーマを歌にしている〔Stina Nordenstam: Magnificent strangeness Friday 15 October 2004 ''The Independent''〕。カルト的ファンもいるが、インタビューの場に姿を現すことが少ない歌手〔。
== 概要 ==

歌手として活動しつつ、写真家や映画監督になることを夢見ていたが、自分のジャケット写真やミュージックビデオを制作した際に挫折し、歌手業にのみ専念している。姉のEmma Nordenstamも歌手として活動しているが、スティーナほどの知名度はない。独自のロリータ・ウィスパーボイスで歌唱するのが特徴。デビュー当時からほぼ全ての楽曲のプロデュースに自ら手をつけた上で個性的なミュージシャンらを起用。「スウェーデンのビョーク」とデビュー当時から常に評されている。
「同じ環境で創作活動をするのは好きじゃない。」と語り、スウェーデンデンマークアメリカイギリスと、新しいアルバムを制作する度にスタジオを変え、スタッフを総入れ替えした〔2004年になって、前作でプロデュースを担当したチャド・ブレイクを「The World Is Saved」でミックスとして再起用した。同じスタッフを製作陣に入れるのはこれが初の試みである〕。日本では、当初所属していたワーナーから「スティーナ」というファーストネームのみの名義でCDをリリースしていた。コラボレーションやコンピレーションアルバムで別のレコード会社からリリースする際には、「スティーナ・ノーデンスタン」や「スティーナ・ノルデンシュタム」などと表記されている。

== 経歴 ==
ジャズ愛好家の父親の影響で、子供の頃からピアノヴァイオリンを始める。「とにかく、自分にできるものはなんでも手を出さないと気が済まない子だった」と述べ、体操やダンス、オーケストラでのヴァイオリンや教会の合唱隊に所属するなど、自分が興味を持ったことに対して積極的に取り組んだ。又、極端な左翼思想を持つ両親の影響からか、彼女自身も青年共産主義同盟に所属し、政治運動を行った経験もある。
ストックホルムの音楽学校に所属していた彼女は、その特異の声質に気づいた教師の薦めで15歳から本格的に歌を歌い始める。ポップソングからクラシックまで歌いこなす彼女の評判はすぐに広まり、噂を聞きつけて集まったプロの年配ミュージシャンと共に「the flippermen」というバンドを結成し、各地のジャズクラブでライブを行っていく。その後、歌うことの喜びを知った彼女はソロで活動を開始し、ストックホルムの郊外の島にある自宅兼スタジオで曲作りを開始する。
1991年、テレグラム・レコードと契約。デビュー作となる「Memories of A Color(メモリーズ・オブ・ア・カラー)」をスウェーデンでリリース。その噂はたちまちヨーロッパ中に広まり、1992年以降には日本を含む世界中でリリースがされた。リリース時のインタビューでは「自分で聞き返してみると、とても幸せなアルバムだと思う。本当の私はこうじゃない。まだまだ心の奥底は表現できでいないのでしょうね。」と語っていた。
1994年にはセカンドアルバム「And She Closed Her Eyes(瞳の中で・・・)」をリリース。プロデューサーにエリック・ホームバーグを起用。デヴィッド・シルヴィアンピーター・ガブリエルとの共演でも知られるトランペット奏者、ジョン・ハッセルが起用された影響も大きかったのか、興行的にも成功を納めた。
その後、収録曲の中の一つであり彼女の代表曲の一つでもある「Little Star」が映画「ロミオ+ジュリエット」のサウンドトラックに使用され、大きな話題となり、シングル「Little Star」が再リリースされた。
1995年には映画『炎のランナー』のテーマ曲等で知られるヴァンゲリスと共にシングル「Ask The Mountains」を制作。同年9月、ニューヨークブルックリンへ渡り、アントン・フィアーと共にシングル「Photographer's Wife」を制作。サウンドトラックとジャケットに書かれているが、この楽曲を使った映画は制作されていない。
1996年、問題作となる「Dynamite(ダイナマイト)」をリリース。ディストーションギターを全面に使用し、重厚なストリングスと歪んだベースやドラムが緊迫した世界観を生んだ。歌詞に至っても、「何もできなかった。あんなの私じゃない」「プライドだって捨てた。あなたの思い通り全部やってきた」「私は頭がおかしくなってきている」といった切羽詰まった世界観を表現。更に「Mary Bell」では1968年に実際に起きた幼児殺人事件の話をベースに作品を制作した。
1998年、初のカヴァーアルバムとなる「People Are Strange(まぼろしの世界)」をリリース。ドアーズロッド・スチュワートプリンスエルヴィス・プレスリーといった有名なポップシンガーの曲から、ほとんど知られていないような伝統音楽や古いフォークソングまでカヴァーした〔尚、この内「Swallow Strings」と「Come To Me」のみ彼女の自作曲である〕。
「私は図書館という場所がとても好きです。そこには善悪を唱える人は誰もいない。子供の頃の私にとって、図書館は必要な休息地であり、邪魔されることなく考えを巡らすことのできる孤独で隔離された場所だったから。」と述べ、図書館で古い楽譜を読み、その音楽を聴き、自ら演奏して歌っていった。それから彼女は、50曲ほどあった候補曲を20曲程度に減らし、コペンハーゲンでプロデューサーのイアン・ケイプルとともにレコーディングを行った。ここでは実験的な試みが常に行われ、マイクの距離を少しずつ変えて何度もボーカルを撮り直したり、部屋の窓を開けて、隣の部屋から聞こえてくるピアノの音を別の部屋から録音するなどが行われた。これらは作品に完全に反映され、CDなのにまるでアナログレコードで聴いているかのような特殊な磁場を生み出した。そして例外なくすべての楽曲は原型をほとんど止めることなく、スティーナ独自の解釈により生まれ変わった。
この実験的な作品も、世間からの評価は冷たく、NMEといった音楽雑誌からも再三酷評された。
日本では、現代音響やノイズミュージックの先端をいくアーティストらをプロデューサーにいち早く起用するスタイルが有名なACOが、アルバム「irony」をリリースした際のインタビューで、「スティーナのまぼろしの世界(邦題)の影響を受けた。こんな作品を私も作りたかった」と語り、アイスランド出身のポストロックバンド、シガー・ロスのメンバーも「このアルバムを何度も聴き、影響を受けた。今でも聴くレコードの一つ」と語るなど、現代のシーンの先端を行く若手ミュージシャンにとてつもない影響を与えた作品だということが、リリースされてしばらく後になってから続々明らかになっていった。
2001年、それまで所属していたレコード会社を離れ、Sony Indipendente に移籍。アルバム「This Is Stina Nordenstam」をリリース。チャド・ブレイクミッチェル・フルームのコンビによるプロデュースを受け、斬新ながらポップミュージックに帰還した。スウェードのブレット・アンダーソンもボーカルで共演している。このアルバムを制作するにあたり、彼女のファンであるソニック・ユースジム・オルークがプロデュースしたいと自ら立候補したが、実現されなかった。
インタビューなどのプロモーション活動を嫌う彼女を思ってか、レコード会社がアルバム収録曲すべてのビデオクリップを、それぞれ別の映像監督に作成させるプロジェクトを開始し、一本のDVDにまとめられた。映画祭などにも出品され公開されたが、あまりにも出来が悪かった模様で、一般販売は直前になって中止された。
レコード会社の失態はこれだけに止まらず、シングル「Sharon & Hope」に収録されるはずだったアルバム未収録の「Walking Too Fast」と「The Thing About Fire」をスティーナに無断で削除して販売したり、楽曲の権利を独自に管理したりした(日本でも、唯一この作品のみ国内盤が販売されていない)。こういったことが続いたせいか、スティーナはこのアルバムをリリース後、早々にSonyから離脱した。
2002年、有名なモデルという過去を持ちながら、人生のほとんどをホームレスとして生きたJean Claudeの生涯を描いたドキュメンタリー作品のサウンドトラックを作成。この中で「I'm Starring Out The World」や「Failling to Fly」、「The World Is Saved」といった、後のアルバムに収録される曲を作成〔アルバムに収録されている音源とは違う(音数が少ない)ので、少人数で別に録音したテイクだと思われる〕。現在に至るまでそれらの音源が1枚のCDとしてはリリースされておらず、数曲の未発表音源がこのフィルムの中に今も眠っている。
2004年、自主レーベル「A Walk In the Park」を設立し、V2レコードと契約。チャド・ブレイクを再び起用し、母国スウェーデンで制作したアルバム「The World Is Saved(ザ・ワールド・イズ・セイヴド)」をリリース。トランペットを使用した電子音響が話題のゴラン・カジフェスや、日本でも人気のグループTapeのベーシストのヨハン・バットリンクといったスウェーデン出身のミュージシャンを起用。前衛ジャズサウンドを取り込みつつ、バックで僅かに鳴り響く淡い電子音や絶妙なバランスで多重録音されたコーラス、そしてストリングスの音色が味わい深い一枚を作り上げた。(当初4月に発売される予定だったが、9月まで延期された。)
製作当時、自身の描いたようなサウンドにならず相当苦心したとのことだが、前作でプロデュースを担当したチャド・ブレイクに相談し、それらのほとんどが解決した。「チャドにお任せしたら、私の手だけで作った音楽が、見事逆のものになって帰ってきた。それがね、私がずっと探してた音だったんだから、本当にびっくりした。」とスティーナは語っている。
日本国内盤をリリースしたP-VINEレコードが、マスター・テープの取り違えにより、録音ミスのままプレスされたCDを発売してしまう。P-VINEは無料交換を宣言、店頭からもすべて回収された。交換された良品の商品には、帯に赤い丸いシールが貼ってある。
同年、スウェーデンのラジオドラマ「Isens Fasor」で朗読と音楽制作を担当。全編スウェーデン語で収録された。
2005年、UFOに遭遇した人々の記録をもとに開催されたイベント「マガジン・プロジェクト」に参加。遭遇経験のある人々のインタビュー音声に彼女が制作した音楽を載せる仕事を担当。それまでのスティーナからはかけ離れたヒップホップ調の激しい重低音のものから、「The World Is Saved」でみせたクラシックなストリングス、ミニマムな電子音響ものまで幅広く使用されている。途中、スティーナ本人の声による解説も入る。全編スウェーデン語。
2005年、スウェーデンの前衛演劇「タランチュラ」にて音楽制作を担当。この音楽にはスティーナのボーカルはない。
2006年2月、フィンランドの新聞で「スティーナがレコーディングを開始しており、2006年にリリースの予定がある」と掲載。が、現在に至るまでリリースの予定は一切ない。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「スティーナ・ノルデンスタム」の詳細全文を読む




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