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スティーブ・ヒレッジ : ミニ英和和英辞書
スティーブ・ヒレッジ[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

スティーブ・ヒレッジ ( リダイレクト:スティーヴ・ヒレッジ ) : ウィキペディア日本語版
スティーヴ・ヒレッジ[ちょうおん]

スティーヴ・ヒレッジ(Steve Hillage、1951年8月2日Steve Hillage | Biography | AllMusic - Artist Biography by Jason Ankeny〕- )は、カンタベリー・ロックを代表する、1960年代末より活躍しているイギリスのミュージシャンである。一般的にはソロ活動、ないしゴングシステム7といったグループに参加したことで知られている。
==略歴==
スティーヴン・シンプソン・ヒレッジ(Stephen Simpson Hillage)はロンドンウォルサムストウで生誕した。彼は1967年、「シティ・オブ・ロンドン・スクール」というパブリック・スクールに通っていたときにデイヴ・スチュワートと出会い、その後モント・キャンベルクリープ・ブロックスも加えて最初のバンドであるユリエル('Uriel')を結成した〔Arzachel | Biography | AllMusic - Artist Biography by Peter Kurtz〕。そのバンドは尿瓶('Urinal')に通じるということからマネジメント側から改名させられ、1969年にはアーザッケル('Arzachel')というグループに発展するが、ヒレッジはそのバンドを「大学に進学する」という理由で脱退した。ヒレッジの脱退したバンドはメンバーを変えて1968年にエッグ('Egg')へと発展し、そのバンドは高い評価を得る(エッグの三枚目のアルバムである"''Civil Surface''"にヒレッジはゲストとして参加している)。
1971年にヒレッジは音楽界に戻りカーン('Khan')を結成した(そのバンドでは友人であるデイヴ・スチュワートがキーボードを担当する)。翌年にアルバム"''Space Shanty''"を発表するが、同じ年にグループは解散した。次に彼はケヴィン・エアーズと組んだり、1973年から1974年にかけてゴングの有名な作品『ラジオ・グノーム三部作("Radio Gnome Trilogy")』にギタリストとして参加したりと様々なグループを渡り歩く。
1975年から彼は本格的にソロ活動に転向する。彼のソロ作品は主にゴングにおける作曲と連続性を持っており、1970年代におけるジミ・ヘンドリックス以降の展開、及びパンク・ロック直前の雰囲気の中で、ギタリストとして、あるいはプログレッシブ・ロック/フュージョンの作曲家・演奏家として、着実にキャリアを積んでいった。彼のアルバム"''L''"はトッド・ラングレンユートピアのメンバーと録音されたものであり、さらに''Green''はピンク・フロイドニック・メイスンがプロデュースに当たった。
これら1970年代の作品は、彼の長年のガールフレンドであるミケット・ジローディの協力を得てスタジオにおける複雑な制作技術を詰め込んだものである。フュージョンやスペイシーなギターサウンドはゴングのサウンドの延長線でもあったが、次第にシンセサイザーなどを取り入れたアンビエントな雰囲気へと変わっていく。この頃、ヒレッジはヒッピー文化の一人として見なされていたが、彼の作品の売り上げはパンク・ロックの到来とともに次第に下落していった。
ヒレッジはイギリス・アンダーグラウンド文化の中心であった、ロンドンラドブローク・グローブ周辺で時間を過ごし、ホークウインド ('Hawkwind'、アンダーグラウンドの共同体的なバンド)の結成メンバーであるニック・ターナー('Nik Turner')と仕事をした。
1979年には初期のアンビエント作品として知られる''Rainbow Dome Musick''をリリースし〔、同年には''Open''、1983年には''For to Next/And Not Or''をリリースするが、その後ソロ活動は途絶える〔。1980年代以降、ヒレッジは録音プロデューサーとしても仕事をしており、シンプル・マインズロビン・ヒッチコックイット・バイツ等の録音制作に就いた〔Steve Hillage | Awards | AllMusic 〕。
1980年後半には活動が停滞していたが、1989年、ヒレッジはジ・オーブのアレックス・パターソンがクラブで''Rainbow Dome Musick''をかけているのを聴き、それを機にジ・オーブとのコラボレーションを始める〔。1990年代初頭にはジローディと再び組んで'システム7'を結成した。そのバンドはまもなくロンドンのアンダーグラウンドなダンスシーンの一角を形成するようになった。彼のプログレッシブ・ロックからテクノ/ダンスミュージックへの転向は一時期埋没しつつあった彼の存在を再評価させることとなる。
また、1990年代にはザ・シャーラタンズ(英バンド)のアルバム『アップ・トゥ・アワ・ヒップス』(1994年)をプロデュースした。次作もレコーディング初期段階でプロデュースを担当していたが、アルバム完成前にバンド側から解雇された。ただし、そのうちの数曲には、ヒレッジの名がプロデューサーとしてクレジットされている。
ヒレッジは1998年に「1, 2, 3 Soleils」というライの音楽イベントをプロデュースしている。アルジェリア出身の歌手であるFaudel、ラシッド・タハ(Rachid Taha)、ハレド(Khaled)をフィーチャーしたものである。1990年代中盤から、ヒレッジはギタリスト兼プロデューサーとして、主にラシッド・タハの音楽制作に加わっている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「スティーヴ・ヒレッジ」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Steve Hillage 」があります。




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