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ステファニー・ド・ベルジック : ミニ英和和英辞書
ステファニー・ド・ベルジック[ちょうおん]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

テフ : [てふ]
 (n) TeX, (n) TeX
: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ステファニー・ド・ベルジック : ウィキペディア日本語版
ステファニー・ド・ベルジック[ちょうおん]

ステファニー・ド・サクス=コブール・エ・ゴタ(、1864年5月21日 - 1945年8月23日)は、ベルギーレオポルド2世とその王妃マリー・アンリエットの間の次女。オーストリア皇太子ルドルフに嫁いだ。
ドイツ語名はシュテファニー・フォン・ベルギエン()。叔母にメキシコ皇帝マクシミリアン(ルドルフの叔父)の妃となったシャルロットがいる。
== 生涯 ==

=== 生い立ちと結婚 ===

オーストリア=ハンガリー帝国の帝位・王位継承者であるルドルフ皇太子が両親から結婚するように迫られたとき、彼の妻に相応しい身分で、適齢期であり、血縁がさほど近くないカトリック信徒の王女は、さしあたってベルギー王家の第2王女ステファニーだけであった。2人は1880年3月7日に婚約を発表したが、ステファニーがまだ幼すぎるため結婚は延期された。
1881年5月10日、ステファニーは17歳になる直前の若さでルドルフ皇太子と結婚した。オーストリア人の天文学者ヨハン・パリサは、同年に自らが発見した小惑星に、新しい皇太子妃に因んだ「ステファニア」という名を付けた。
夫妻の結婚生活は新婚の時期を過ぎると、幸福なものとは言えなくなった。それでもステファニーは1883年9月2日にラクセンブルク宮殿で一人娘エリーザベト・マリーを産んだ。さらに、姑のエリーザベト皇后はステファニーを毛嫌いし(エリーザベトは義妹シャルロットが大嫌いでベルギー王室を毛嫌いしており、ステファニーがシャルロットの姪であることからステファニーにも嫌悪が向けられた)、面と向かって(義妹のシャルロットをも引き合いに出して)のみならず詩の中でまでも、ことあるごとにステファニーを侮辱し、ステファニーはこれに耐えねばならなかった。義妹のマリー・ヴァレリーまでもが、母に同調してか、ステファニーを嫌った。こうしてステファニーは、オーストリア皇室の中では次第に孤立を深めていった。
1889年、夫のルドルフ皇太子がマイヤーリンクで17歳のマリー・ヴェッツェラ男爵令嬢と一緒に死んでいるのが発見され、しかも二人の死は情死であると考えられた。ステファニーは皇后となる望みを断たれた上、夫のスキャンダラスな死に方のせいでウィーン宮廷からも遠ざかることを余儀なくされた。ステファニーと父レオポルド2世との親子関係も険悪で、彼女は相続財産をめぐり父と法廷で争わねばならなかった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ステファニー・ド・ベルジック」の詳細全文を読む




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