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ステファン"ブリッツ"レコ(Stefan "BLITZ" Leko、男性、1974年6月3日 - )は、ドイツクレーフェルト出身(現クロアチア国籍)のキックボクサー。ゴールデン・グローリー所属。ブリッツ(ドイツ語で稲妻の意)の異名を持つ。ブリッツヘアという独特のヘアスタイルがトレードマーク。 “稲妻”のニックネームの通り、鋭い右ストレートを最大の武器としており、高い技術と素早い打撃・フットワークを持つK-1屈指のスピードファイター。 ヘビー級としては小柄ながら体重差を苦にすることなく、スピードを活かしたテクニカルなファイトで活躍した。バックハンドブローやバックスピンキックなどの回転系の技も得意としている。 == 来歴 == === K-1時代 === 参戦初期から次世代を担う選手として期待され、モデルのような甘いマスクもあって「K-1のトム・クルーズ」とも呼ばれていた。ヘビー級トップクラスのスピードとテクニックを持ち味に、GP予選で優勝したりするなど、期待通りの活躍を見せてはいたが、トップファイターにはあと一歩及ばず、伸び悩んでいた。 しかし21世紀に入ってボクシング技術の向上を図り、所属ジムをマスターズジムからゴールデン・グローリーに移すなどした事が実を結んだのか実力を発揮し始め、ピーター・アーツ、レミー・ボンヤスキー、アレクセイ・イグナショフ、マイク・ベルナルド、フランシスコ・フィリォらK-1トップファイターから白星を挙げ、快進撃を続けた。 2000年10月9日、K-1 WORLD GP 2000 in FUKUOKAのトーナメント1回戦でアンドリュー・トムソンに右ローキックでKO勝ち。しかし右拳骨折のためマイク・ベルナルドとの準決勝を辞退した。 2000年12月10日、ジェロム・レ・バンナの欠場により、12月10日の決勝トーナメントに急遽参戦。1回戦でフランシスコ・フィリォと対戦し、判定負けを喫した。 2001年6月24日、K-1 SURVIVAL 2001 〜K-1 JAPAN GP 開幕戦〜のスーパーファイトでジェロム・レ・バンナと対戦。中盤までは互角の展開で進み、4Rにハイキックでダウンしたがすぐに立ち上がりバンナを攻め立て4・5Rは押し気味に試合を進めた。フラッシュダウンが響き判定負けとなったが、後半はレコが押していたため高い評価を得ることとなった。 2001年8月11日、K-1 WORLD GP 2001 in LAS VEGASのGP予選トーナメントにて、ジェフ・ルーファスを2RKO、セルゲイ・イバノビッチを2RKO、ピーター・アーツを3RKOと、3試合連続KO勝ちで優勝。特に決勝戦ではピーター・アーツから2度ダウンを奪い、最後は右ストレート一発でノックアウト勝ちを収めて優勝。K-1 WGP 2001のベスト8進出を決めると共にトップクラスであることを証明した。このアーツ戦はレコの試合前の煽りVTRで必ずと言っていいほど紹介され、レコ本人も生涯のベストバウトとしてこの試合を挙げている。 2001年12月8日、K-1 WORLD GP 2001 FINALの準々決勝でアーネスト・ホーストと対戦。2Rにレコがローキックを打った際にホーストのパンチがヒットしたため、レコが後ろに倒れすぐ何事も無く立つも審判にダウンと判断される。レコはダウンではないとアピールするが結果は覆らず。試合は最後まで互角の展開となったが、ダウンのポイント差により判定負けを喫した。 2001年12月8日、K-1 WORLD GP 2001 FINALにて、負傷したホーストの代わりに準決勝でマーク・ハントと対戦。1R早々にダウンを奪われると、2Rにも直前のホースト戦のような展開で再度ダウンを奪われ、判定負けを喫した。 2002年8月17日、K-1 WORLD GP 2002 in LAS VEGASのスーパーファイトでレミー・ボンヤスキーと対戦し、レミーを完封し判定勝利を収めた。 2002年10月5日、K-1 WORLD GP 2002 開幕戦でアレクセイ・イグナショフと対戦。判定勝利を収めGP FINALへと進出した。 2002年12月7日、K-1 WORLD GP 2002 FINALの決勝トーナメントの準々決勝でマーク・ハントと対戦。3Rにハントの左フックを受けてKOで敗れた。 2003年3月30日、K-1 WORLD GP 2003 in SAITAMAにてピーター・アーツと対戦し、3RTKO勝ち、 2003年5月2日、K-1 WORLD GP 2003 in LAS VEGASにて、グレート草津と対戦し、2RKO勝ち。 2003年5月30日、K-1 WORLD GP 2003 in BASELにて、マイク・ベルナルドと対戦し、3R判定勝ち。 2003年10月11日、K-1 WORLD GP 2003 開幕戦ではフランシスコ・フィリォに3R判定勝ち。4連勝となりトップファイター相手に連勝を重ねた。 この結果、K-1 WORLD GP 2003の決勝大会では決勝トーナメント出場メンバーがレコが勝利した選手ばかりとなっており、調子も含めてファンやマスコミにK-1 WGP 2003の優勝候補最有力と言われることとなった。しかし、開幕戦でファイト契約の切れたレコは、急に格安の金額で長期・複数試合契約を要求し始めたK-1の主催者側(FEG)との契約が合意に至らず、決勝大会の出場メンバーから外される事となった〔レコ欠場。ボタとアビディが再戦 BoutReview 2003年11月26日〕。この話にはボクシングスターのフランソワ・ボタを決勝トーナメントに出したいK-1(FEG)の思惑により、丁度その際に契約更新を迎えたレコが狙われたというマスコミ関係者の話もあったが真実は分かっていない。K-1側はボタの出場発表会見で「(レコ欠場については)K-1側としては興行成立のため、毅然とした態度をとった」と声明を出したが〔ボタがK-1 GP代打出場!レコが欠場 スポナビ 2003年11月25日〕、一方でミルコ・クロコップの公式サイトのNEWS欄では「レコがK-1GP決勝戦から外された後、K-1の主催者たちは彼に謝罪した」という文章が掲載されたりするなど、この件はK-1側と他の人間の証言がなかなか一致しなかった。また、SRS-DXのサイトでK-1EPの谷川貞治が開幕戦の総括時に「このメンバーで爆発的に大会を盛り上げるのは至難の業。」「毎年、誰か必ずケガをするので、気が付いたらリザーバーのボタが優勝になってるかもしれない。リザーブマッチをどうするかが頭の使いどころですね」」〔谷川貞治の大会総括「アビディは本当にずるい奴。ボンヤスキーは悪徳銀行員!」 SRS-DX(現在サイトは消滅) 2003年10月12日〕とレコ欠場前から語っていたことにより、様々な議論や憶測を呼んだ。 2003年12月31日、INOKI BOM-BA-YE 2003に出場し、村上和成とキックボクシングルールで対戦し、右ハイキックで1RKO勝ち。試合後会見では「(本来ならK-1 WORLD GP 2003 決勝大会に予定通り出場し、優勝して)K-1王者としてこの試合をするつもりだった。」と語った。 2003年のK-1 WGP 2003 決勝大会直前に起きた、K-1を主催するFEGとの契約トラブルにより、K-1を離脱。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ステファン・レコ」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Stefan Leko 」があります。 スポンサード リンク
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