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ストゥデニツァ修道院(セルビア語 : )は、セルビア中央部、クラリェヴォ(Kraljevo)の南西39 km に位置するセルビア正教会の修道院で、セルビア正教会の修道院としては最大級のものである。 この修道院は中世セルビア王国の建国者であるステファン・ネマニャが1190年に設立したものである。修道院は城壁で囲まれ、生神女聖堂と「王の聖堂」という、ともに白い大理石でできた二つの付属聖堂を擁している。 この修道院は何よりも13世紀から14世紀にかけてのビザンティン美術の精華と見なしうる美しいフレスコ画群の存在で知られており、1986年にユネスコの世界遺産リストに登録された。 ==歴史== 生神女の進堂(the Presentation of the Holy Virgin)に捧げられたストゥデニツァ修道院は、全セルビア正教会の教会建築物の中心となるものである。 この修道院の建造には、実に長い期間を要した。最初の工事段階が完了したのは1196年春のことで、その時にステファン・ネマニャは王位を退き、一介の修道士シメオンとして修道院の設立に尽力した。後に彼がヒランダル(Hilandar)に去った時に、彼の息子であり後継者でもあったステファン・ネマニッチ(Stefan Nemanjić)が修道院の世話を引き継いだ。ネマニャは1199年にヒランダルで没した。ネマニャの三男ラストコ(後の聖サヴァ, St. Sava)は、2人の兄ステファンとヴカン(Vukan)を仲直りさせたあと、父ネマニャの亡骸をストゥデニツァに移管した。ラストコの後見のもとで、ストゥデニツァは中世セルビアにおける文化的、政治的、精神的な中心地として機能するようになった。ラストコは他にも『ストゥデニツァ・ティピコン』(Studenica Typikon)を纏めている。彼はその中で聖シメオン(ネマニャ)の生涯を叙述する形で、その時代における精神生活や修道院生活の証言を残したのである。 ストゥデニツァ修道院は、その後もネマニャ朝の歴代の王たちからの厚遇を享受した。ステファン・ラドスラヴ王(Stefan Radoslav)は、1235年に付属聖堂に壮麗な拝廊を付け加え、ウロシュ2世ミルティン(Uroš II Milutin)は聖イオアキムと聖アンナに献堂された小さいけれども美しい聖堂を建設した。 1459年に中世セルビア王国が完全に凋落してからは、オスマン帝国が修道院をしばしば襲撃した。損壊に対する最初の重要な修復事業は1569年に行われ、その時に生神女聖堂のフレスコ画も塗り直された。しかし、17世紀初頭に起こった地震と火災によって、修道院の歴史的文書や芸術的な遺産のうちの重要な部分が被害を受け、永遠に失われてしまった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ストゥデニツァ修道院」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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