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初代ストラフォード伯トマス・ウェントワース(, 1593年4月13日 - 1641年5月12日)は、イングランドの政治家、貴族。 庶民院議員として政界入り。当初は反国王派だったが、1628年から国王派に転じた。1629年から1640年にかけて国王チャールズ1世は議会無視の親政を行ったが、その間にやアイルランド総督などを歴任し、イングランド北部やアイルランドで専制政治を展開した。1639年にはウィリアム・ロードとともに国王の筆頭顧問官となる。しかし内戦前夜の1640年から1641年にかけての議会で専制政治の責任を追及されて私権剥奪法可決により処刑された。 1628年7月に、同年12月に、1640年にストラフォード伯爵に叙せられた。 == 概要 == 1593年に後に初代準男爵に叙されるジェントリのウィリアム・ウェントワースの息子として生まれる。ケンブリッジ大学やインナー・テンプルで学ぶ。1614年に父の死により準男爵位を継承した(''→青年期まで'')。 1614年の議会で庶民院議員に初当選した。ジェームズ1世・チャールズ1世とその側近バッキンガム公ジョージ・ヴィリアーズの政策に反対し、1627年の強制借用金の際には支払いを拒否して一時投獄されている(''→庶民院議員として'')。1628年の権利の請願にも賛成した(''→権利の請願'')。 しかし間もなく国王派に転じ、1628年7月に、同年12月にに叙されるとともにに任じられた。1629年に議会が閉会されて国王親政が開始されると、北部イングランドで専制政治を行った(''→国王派に'')。1632年にはアイルランド総督(Lord Deputy)に就任し、アイルランドでも専制政治を行った(''→アイルランド総督'')。 1639年9月にロンドンに呼び戻され、カンタベリー大主教ウィリアム・ロードとともに国王の筆頭顧問となる。1640年にはに叙される。主教戦争の戦費の捻出のために議会の招集を国王に助言したが、1640年4月から5月にかけて招集された議会(短期議会)は臨時課税に厳しい態度だったので解散させることに同意した(''→中央の権力者に'')。 同年11月にスコットランドへの賠償金支払いのために再度議会を招集することになったが(長期議会)、庶民院の態度はより厳しくなっており、急進的進歩派の議員ジョン・ピムの主導でストラフォード伯の弾劾が推し進められた。弾劾は貴族院での可決が困難だったので、途中で私権剥奪と処刑を求める法案に切り替えられた。ロンドン市民の示威運動の圧力などにより貴族院も国王も妥協し、法案は成立した(''→議会からの弾劾と私権剥奪'')。 これにより1641年5月12日に処刑された。しかし議会と国王の対立は収まらず内戦へ突入し、王党派は敗れ去り、チャールズ1世も処刑されることになる(''→処刑とその後'')。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「トマス・ウェントワース (初代ストラフォード伯爵)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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