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ストレリツィ(стрельцы, streltsy)は、火器を主装備とした16世紀から18世紀初期にかけて存在したモスクワ・ロシアの歩兵隊。しばしば銃兵隊と訳される。 ストレリツィは名詞ストレレッツ(ロシア語:стрелец, strelets)の複数形である。この言葉は元来射手を意味していたが、火縄銃やマスケット銃が普及してからは銃兵の意味になり、ストレリツィが組織されてからは特にその隊員を指す語となった。本稿では和訳の通例に従い、兵士を意味するときは複数人いてもストレレッツの語を用い、軍組織を意味するときだけストレリツィの語を用いる。 == 歴史 == === 16世紀 === 1540年代から1550年代にかけて、ツァーリ・イヴァン4世により、当時ロシアに頻繁に侵入していたタタールなどの外敵に対抗する目的で、皇帝直属の近衛銃兵隊であるストレリツィが編成された。これはロシア史上初の常備軍と言えるもので、制服を与えられ、火器を扱うための訓練を受けていた。この隊に所属するストレレッツは、初期には商人や農民などの平民から徴集されていたが、次第に世襲的な軍人階級となっていった。 当初の兵力は、500名のストレレッツで構成されたpriborと呼ばれる連隊(後にprikaz、polkと改名された)が6隊であったが、時代とともに増員されていき、16世紀末にはおよそ20,000人から25,000人、1681年には55,000人のストレレッツが存在した。このとき、およそ半数のストレレッツはモスクワの精鋭軍に所属し、皇帝の勅命により軍事作戦に参加するほか、首都の治安維持にあたる警察官としての役目を果たしていた。残り半数は地方都市に駐屯し、その都市の軍司令官(vaivode)の指揮下で国境警備などを行っていた。 ストレレッツには郊外に専用の居住区(slobody)が与えられ、俸給と食糧の支給を受けていた。また地域によっては、俸給の代わりに小さな土地を与えられることもあった。俸給は十分とは言えず、収入を補うために手工業や交易などを営むことが許されていたが、これが次第にストレレッツ間の財産の不平等や、商人との癒着などを生じさせることとなる。 1552年のカザン征服、リヴォニア戦争、17世紀初頭のポーランド・スウェーデンによる侵略(ロシア・ポーランド戦争、)など、数々の戦闘でストレリツィはロシア軍の主力部隊として活躍した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ストレリツィ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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