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レガシィ アウトバック(''LEGACY OUTBACK'' )は、スバルのレガシィシリーズ。レガシィツーリングワゴンをベースに最低地上高を200mmにしたステーションワゴンとSUVの中間の自動車(クロスオーバーSUV)である。なお、本稿では、先代のレガシィグランドワゴン/レガシィランカスターも取り扱う。 == 概要 == 元々スバルこと富士重工業は主要輸出マーケットであるアメリカで、レオーネ4WDによって「廉価で丈夫で悪路に強い」といった評価を獲得していた。しかしそれは逆に言うと「ファーマーズカー」、つまり農家の車という地味なイメージも付く原因にもなった。当時の富士重は、好調なアメリカ向けの輸出への過度の依存による組織の硬直化が進み、さらに1985年9月のプラザ合意以降、1980年代後半の急激な円高によって企業存亡の危機に瀕し、1980年代末には専門誌や新聞等で公然と他社による買収や吸収合併、倒産の危機が報道されるほどの厳しい局面を迎えていた。 この危機からの打開のため、開発主管制度の導入、開発部門の連携の強化などの大規模な組織改革が断行され、開発コード「44B」として開発が進められ、1989年1月、起死回生の一作として送り出したのが初代レガシィであった。主要輸出マーケットであるアメリカで、それまでのレオーネの地味なイメージを覆すことに徐々に成功しつつあり、富士重の経営建て直しにも明るい兆しが見え始めていた。 一方、アメリカでは1960年代中盤以降、「ジープ・チェロキー」、「シボレー・ブレイザー」といったSUVに対する根強い需要が常にあり、特に1990年代に入ると都市部においてもこうしたSUVを所有することが一種のステータス・シンボルと見なされブームとなっていた。しかし、こうしたSUVは大きく、重く、燃費が悪いうえ、取り回しもし難いなどの短所もあった。 レガシィは洗練されてはいたが、レオーネの様な野性味ある雰囲気は薄れていた。さらにいすゞとの合弁で1989年から稼動を開始したSIA(スバル・イスズ・オートモーティブ→スバル・オブ・インディアナ・オートモーティブ)でいすゞが生産するSUVをホンダにOEM供給(ホンダ・パスポート)していることがアメリカ内の代理店から不満として富士重に寄せられ、早急なSUVの投入が必要だったと言われている。 元々富士重社内にはアウトドアライフを嗜む開発担当者が多く、こうした声に応え、当時主にアメリカ向けに新開発されたレガシィの2.5L水平対向エンジン搭載車をベースに、オールウェザータイヤ、200mmのロードクリアランスとゆったりとした乗り心地を与え、内外装によりラギッド〔Rugged=英語で「荒削りな」の意〕テイストを付加するなど、商品化はツボを押さえ、非常にスムーズに進んだと言われている。 アメリカ向けには1994年から「アウトバック」として、日本国内向けには1995年8月から「レガシィ・グランドワゴン」(''GRAND WAGON'' )として発売された。〕、1998年にフルモデルチェンジした2代目は車名を「レガシィ・ランカスター」となった。3代目は日本でも「アウトバック」となり世界統一かと思われたが、2006年のマイナーチェンジで日本国内向けについては「レガシィ・アウトバック」となった。 当初「SUW(スポーツ・ユーティリティ・ワゴン)」という新しいカテゴリーのクルマとして、「The World's First SUW」(世界初のSUW)、「The Best of Both World」(乗用車とSUVの双方の長所を兼ね備えた)というコピーで投入されたが、ターゲットとしたアメリカ市場での販売は芳しくなかった。しかし、現地S.O.A(スバル・オブ・アメリカ)の地道な努力が実り、1年ほどで販売は好調に転じ、アメリカにおけるスバルの主要ラインナップとして富士重の経営建て直しに非常に大きな貢献をした。 2006年、アメリカ合衆国におけるスバルの販売台数は史上初めて年間20万台を突破したが、最量販モデルは5万9,262台が販売されたアウトバックであった。 日本国内にはワゴンタイプのボディしかないが、初代、2代目、3代目(2007年モデルまで)の北米仕様にはセダンボディも存在した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「スバル・レガシィアウトバック」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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