翻訳と辞書
Words near each other
・ スピカ (曖昧さ回避)
・ スピカ (雑誌)
・ スピカちゃん
・ スピカ級
・ スピカ級水雷艇
・ スピキュール
・ スピグラ
・ スピコン
・ スピゴットマウント
・ スピシスカー・ノヴァー・ヴェス - レヴォチャ線
スピシュスキー城
・ スピシュ城
・ スピタク地震
・ スピタメネス
・ スピタメン
・ スピックインターナショナル
・ スピッツ
・ スピッツ (アルバム)
・ スピッツ (バンド)
・ スピッツ (曖昧さ回避)


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

スピシュスキー城 : ミニ英和和英辞書
スピシュスキー城[すぴしゅすきーじょう]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
: [しろ]
 【名詞】 1. castle 

スピシュスキー城 : ウィキペディア日本語版
スピシュスキー城[すぴしゅすきーじょう]

スピシュスキー城またはスピシュ城("スピシュの城"、スロバキア語Spišský hrad)は、東部スロバキアプレショフ県レヴォチャ郡スピシュスケー・ポドフラジエ市(Spišské Podhradie、スピシュの城下)郊外にある。現在は廃墟であるが、中欧でも大きな城の一つである。
==歴史==
スピシュスキー城は、スラヴ人の城があった場所に12世紀に建てられた。旧スピシュ県(現・プレショフ県およびコシツェ県の一部)の経済・行政・政治・文化の中心地であった。1464年以前は名目上ハンガリー王国が所有し、のちサポヤイ家(ザーポリスキー家、1464年-1528年)、トゥルゾー家1531年-1635年)、ツサースキー家(1638年-1945年)が所有し、1945年にチェコスロバキア政府が接収。1993年以降はスロバキア政府の国有地である。
15世紀初頭にハンガリー王国が深刻な財政危機に陥った際、北の隣国ポーランド王国がスピシュ県一帯の諸都市を担保として1412年ルボフラ条約に基づき大量の資金をハンガリーに緊急融資し、完済されるまでスピシュ県はポーランド王国の管理下となったが、スピシュ城はハンガリー王の所有物として残された。
ポーランド王国管理下の諸都市は、塩坑の開発による岩塩の生産と、東西陸上貿易を行う商業の発展で栄えた。ポーランド王国による行政と経済の権益は18世紀まで続いたが、1772年第1次ポーランド分割によって債権者であったポーランド王国がオーストリアにこの一帯の土地を割譲させられ、1773年にポーランドがこの債権を強制的に放棄させられることで消滅した。
城は当初、ロマネスク建築の要塞化された石城で、2階建てのロマネスク様式宮殿と3つの本堂のあるロマネスク=ゴシック建築の聖堂が13世紀半ばに一帯に建てられた。2番目の城壁外居住地は14世紀に建てられ、城一帯は二重となった。15世紀に城は完全に再建されている。城壁は高くされ3番目の城外居住地が建設された。後期ゴシック様式礼拝堂は1470年頃付け足された。サポヤイ家は後期ゴシック様式に変え、上階を過ごしやすい家族の住居とし、16世紀17世紀の典型的な後期ルネサンス様式の住居にした。
最後の所有者ツサースキー家は、生活の不便さから18世紀初頭に城から転居し、城の南東麓の集落であるスピシュ県(現・コシツェ県)スピシュスカー・ノヴァー・ヴェス郡ジェフラ村や西方約10kmのレヴォチャ郡スピシュスキー・フルホフ村に新たな邸宅を建てそこへ移り住んだ。のち1780年に城は火災に遭い、それ以降廃墟と化した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「スピシュスキー城」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.