|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 号 : [ごう] 1. (n,n-suf) (1) number 2. issue 3. (2) sobriquet 4. pen-name
スピリット・オブ・セントルイス号(英語:Spirit of St. Louis)とは、1927年5月21日にチャールズ・リンドバーグによって、ノンストップでの大西洋横断単独飛行に成功したライアン・エアラインズ(Ryan Airlines)製の単発機ライアンNYP-1の愛称である。愛称はリンドバーグによって名付けられた。 製造者による機体命名「NYP-1」は、この機体の唯一の目的である飛行区間「ニューヨーク・パリ」のイニシャルを取って命名された。チャールズ・リンドバーグの依頼を受け、1927年にライアン・エアラインズの技術者ドナルド・A・ホール(Donald Albert Hall 1898-1968)らによって設計され、1機のみ製作された。 == 概要 == 1927年2月、リンドバーグはライアン社に長距離電話を通じ、大西洋横断機の製作を打診した。その時点で、大西洋両岸の多くの著名パイロットがオルティーグ賞を狙った大西洋横断無着陸飛行の準備を進めており、ライバルたちに先を越されないために、一刻も早く飛行できる機体を入手し、出発する必要があった。ライアン社は照会に対し、当時生産していた4座席の単発郵便輸送機「ライアンM-1」の構造をベースに機体を開発すれば3ヶ月で納入できる、と回答したが、リンドバーグはさらなる納期の短縮を求めた。その日のうちにライアン社は電報で「2ヶ月でお渡しする」と回答し、リンドバーグはライアン社への発注を決意した〔同時期、オルティーグ賞を狙っていた面々の中には著名な冒険家である軍人リチャード・バードもおり、バードらの搭乗した3発機フォッカー・トライモーターはリンドバーグの約1ヶ月後、ニューヨークから離陸してフランスの海岸まで到達した。従って、リンドバーグの危惧は決してオーバーなものではなかった。〕。 リンドバーグはライアンと交渉する以前、大西洋横断の機材としてジュセッペ・ベランカ設計によるベランカ WB-2(当時の単発輸送機では最優秀の部類に属し、多くの飛行記録を達成した)での飛行を希望していたが、ベランカ機の価格は25,000ドルと高額なうえ、当時WB-2の製造権を持っていたメーカー、コロンビア航空機の実質的オーナーが、無名のリンドバーグに機体を提供することに(信用の面から)難色を示し、機体調達に失敗していたのであった。 2月23日、リンドバーグはカリフォルニア州サンディエゴのライアン社工場を訪れ、会社のオーナーであるフランク・マホーニー、技術者のドナルド・ホールらと会見してコンセプトを話し合った。またライアンM-1とその改良型M-2の実機も確認、最終的に10,580ドル〔ベランカが25,000ドル、リチャード・バードの搭乗したフォッカー・トライモーターが100,000ドル程度した当時ではこのライアンの価格は格安で、資金の乏しかったリンドバーグには願ってもない条件であった。〕の費用で、ライト・ホワールウィンドエンジンを装備した長距離機の60日以内での製作・納入契約を結んだ。実際にNYP-1は60日間で設計・製作を完了した。 NYP-1は既存のライアンM-2の「4000マイル飛行仕様」という建前で当局に登録申請され、その結果「実験機」を意味する「X」を含む機体記号「NX-211」が付与された。完成した機体は1927年4月28日、リンドバーグの操縦でサンディエゴにおいて初飛行した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「スピリットオブセントルイス号」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|