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スプリングヒルの戦い : ミニ英和和英辞書
スプリングヒルの戦い[たたかい]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [いくさ]
 【名詞】 1. war 2. battle 3. campaign 4. fight 
戦い : [たたかい]
 【名詞】 1. battle 2. fight 3. struggle 4. conflict 

スプリングヒルの戦い : ウィキペディア日本語版
スプリングヒルの戦い[たたかい]

スプリングヒルの戦い(スプリングヒルのたたかい、)は、南北戦争も終盤となった1864年11月29日テネシー州モーリー郡スプリングヒルでフランクリン・ナッシュビル方面作戦の一部として起きた戦闘である。ジョン・ベル・フッド中将の率いる南軍テネシー軍が、コロンビアからスプリングヒルを通って撤退途中にあったジョン・マカリスター・スコフィールド少将の指揮する北軍を攻撃した。南軍は指揮の誤りが続き、北軍に大きな損失を与えられなかった。北軍は夜の間に北のフランクリンに向けて抜け出し、南軍はこれを抑えられなかった。翌日、フッドはスコフィールド隊を追跡し、要塞化したフランクリンを攻撃したが、大変大きな損失を出すことになった。
== 背景 ==
フッドはアトランタ方面作戦で敗北した後、ウィリアム・シャーマン将軍の軍隊のテネシー州チャタヌーガからジョージア州アトランタに至る供給線を妨害することで、その軍隊を戦闘に誘き出そうと期待していた。しかしシャーマンは短期間フッド軍を追撃した後は、その代わりにアトランタからサバンナ海への進軍を始めた。シャーマンはカンバーランド軍を指揮するジョージ・ヘンリー・トーマス少将の下に部隊を残し、テネシーを守り、フッド軍を破るよう指示した。デイビッド・S・スタンレー少将の指揮するカンバーランド軍配下の第4軍団と、スコフィールド少将の指揮するオハイオ軍第23軍団がその任務に就いた〔Jacobson, p. 41; McPherson, p. 179.〕。
フッド軍は北アラバマを抜けて移動し、その軍隊を10月30日から11月21日までアラバマ州フローレンスに集中させ、物資の到着と、新しく割り振られた騎兵指揮官ネイサン・ベッドフォード・フォレスト少将との合流を待った。フッドはジョージア州を抜けてシャーマン軍を追跡するよりも、新しい作戦を実行する道を選んだ。すなわち、北のテネシー州に移動し、トーマスの軍勢が集合できる前にこれを叩き、ナッシュビルの重要な製造拠点を占領した後は、さらに北のケンタッキー州に侵略し、できればオハイオ川まで進むというものだった。そこまで行けば東のバージニア州に進軍でき、ピータースバーグで包囲されているロバート・E・リー将軍の軍隊に合流できると考えた。西部戦線の総司令官P・G・T・ボーリガード将軍がフッドに、シャーマンの進軍をけん制するための即座の行動を促しており、トーマスがその軍勢を統合できる前に動くことの重要性を強調していた〔McPherson, p. 180; Jacobson, pp. 44-47; Sword, pp. 68, 72-73; Nevin, p. 82.〕。
フッドのテネシー軍は11月21日に3つの部隊に分かれてフローレンスを出発した。ベンジャミン・F・チーザム少将軍団が左翼、スティーブン・D・リー中将軍団が中央、アレクサンダー・P・スチュワート中将軍団が右翼であり、全てフォレストの騎兵隊が攻撃的に遮蔽していた。スコフィールドはスタンレーの軍団と自分の軍団を指揮し、南軍の進軍を前にして後退し、プラスキーからコロンビアまで急速に北に進んだ。北軍はコロンビアに到着でき、南軍が到着するほんの数時間前に防御工作を築き上げることができた〔Sword, pp. 84, 89, 91; Nevin, pp. 82-83; Jacobson, pp. 53, 55; Welcher, p. 586; McPherson, p. 180.〕。
11月24日から29日まで続いたコロンビアの戦いは、一連の小競り合いとコロンビアに対する砲撃だった。11月28日、トーマスがスコフィールドに、北のフランクリンへの撤退の準備を始めるよう指示した。トーマスは、アンドリュー・J・スミス少将が指揮する第16軍団が直ぐにも到着するものと予想しており(実際には到着しなかった)、スミス隊を合わせれば、コロンビアのダック川ではなく、フランクリンのハーペス川の前線でフッド軍に対する防御を行いたいと考えた。スコフィールドは前線から800両の荷車輜重隊を、ジョージ・D・ワグナー准将の第4軍団所属師団の一部に守らせて送り出した。同日、フッドは、フォレスト将軍の下にある騎兵3個軍団をコロンビアから数マイル東に送り出し、フォレスト隊はそこで川を渡って北に進んだ〔McPherson, p. 182.〕。
11月29日、フッドはチーザムとスチュワートの軍団を敵の側面に回り込ませるために北に行軍させ、コロンビアの東にあるデイビスの浅瀬でダック川を渡り、一方リーの軍団の2個師団と砲兵隊の大部分は南岸に留まり、スコフィールドにコロンビアに対する総攻撃が計画されていると思わせるように仕組んだ。フッドは馬に乗ってチーザム軍団の先頭近くにおり、その軍をスコフィールド隊とトーマス隊の間に侵入させ、スコフィールド隊がコロンビアから北に撤退する時を叩いて破ろうと期待していた。スチュワートの軍団がチーザム軍団の後に従い、その後をリー軍団のエドワード・"アレゲーニー"・ジョンソン少将の師団が追った。リー軍団の残りはコロンビアの南に留まり、ダック川北岸にいるスコフィールド隊に対して、砲撃と共に示威行動を行っていた〔Jacobson, pp. 72-75; Eicher, p. 770; McPherson, p. 182; Welcher, p. 588; Nevin, p. 88.〕。
北軍ジェイムズ・H・ウィルソン准将の騎兵隊と、進軍してくる南軍フォレスト将軍の騎兵隊との間でその日はずっと小競り合いが続いた。フォレスト隊4,000名が幅広い回り込みを行って、ウィルソン隊を北のハーツコーナーに追い込み、北軍の騎兵がフッドの歩兵隊の前進を邪魔しないようにしていた。11月29日午前10時までに、フォレストは自隊に西に転じてスプリングヒルに向かうよう命じた。ウィルソンは何度もスコフィールドに伝令を送り、フッド隊の前進を警告したが、スコフィールドがその報告を信用し、目前にあるリー軍団の砲撃が見せかけであることを理解し、事態が苦境に陥りつつあることを認識したのは11月29日の夜明けになってからだった。スコフィールドはスタンレーに、第4軍団のネイサン・キンボール准将の師団、ワグナー師団の残り、予備砲兵隊を付けて、北に送り出した。その任務は当初輜重隊を守ることだったが、後にはスプリングヒルの交差点を保持して、全軍がフランクリンに撤退する道を確保することになった〔Jacobson, pp. 72-75; McPherson, p. 182; Welcher, p. 588; Nevin, p. 89.〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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