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スペイン継承戦争 : ミニ英和和英辞書
スペイン継承戦争[すぺいんけいしょうせんそう]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

スペイン : [すぺいん]
 (n) Spain, (n) Spain
継承 : [けいしょう]
  1. (n,vs) inheritance 2. succession 3. accession 
: [いくさ]
 【名詞】 1. war 2. battle 3. campaign 4. fight 
戦争 : [せんそう]
  1. (n,vs) war 

スペイン継承戦争 : ウィキペディア日本語版
スペイン継承戦争[すぺいんけいしょうせんそう]

スペイン継承戦争(スペインけいしょうせんそう、)は、18世紀初めにスペイン王位の継承者を巡ってヨーロッパ諸国間で行われた戦争(1701年 - 1714年)。また、この戦争において北アメリカ大陸で行われた局地戦はアン女王戦争と呼ばれる。
== 原因 ==

フランス王ルイ14世は領土拡大を目論み、たびたび戦争を起こしたが(ネーデルラント継承戦争オランダ侵略戦争大同盟戦争)、イングランド王オランダ総督ウィリアム3世を中心とする周辺諸国の反発を招き、小規模な目的しか達成出来ずにいた。1697年に大同盟戦争を終結させたレイスウェイク条約で、フランスは領土をほとんど手に入れられなかったばかりか、相手側の要求を認めたため実質的な敗戦となったが、ルイ14世は姻戚関係にあるスペイン王位に目をつけていたため妥協した結果であった。
スペイン・ハプスブルク家カルロス2世は生来虚弱体質で、子孫が生まれることを望めなかった。このため、フェリペ4世の娘でカルロス2世の姉マリア・テレサ(フランス名マリー・テレーズ1683年死去。自身はフランス王家に嫁ぐ際にスペイン王位継承権を放棄)とブルボン家のフランス王ルイ14世(フェリペ3世の娘アナ(アンヌ)の子でもある)の子であるフランス王太子ルイ(グラン・ドーファン、後のルイ15世の祖父)が後継候補とされた。しかしフランス王位継承者がスペイン王となればフランスとスペインが将来同君連合となってしまうため反対が多く、フランス側からもルイ14世の孫で王太子の次男(後のルイ15世の叔父)アンジュー公フィリップを後継者に推した。
これに対して、スペイン王家とは同族で、フェリペ3世の娘でアンヌの妹マリア・アンナ(マリア・アナ)の子であるオーストリア・ハプスブルク家神聖ローマ皇帝レオポルト1世も候補になったが、これもスペインとオーストリアの合邦を招くため、レオポルト1世は末子のカール大公を候補者に推していた。勢力均衡で戦争を防ぐためウィリアム3世はフランスと度々交渉を行い1698年1700年にスペイン領分割条約を結び、海外領土を含めた広大な所領をアンジュー公・カール大公に分け与えて相続することを取り決めたが、交渉から外されたオーストリアの反対と所領の一括相続を望むカルロス2世の拒絶で、いずれも実現しなかった。
各国の思惑が交錯する中、カルロス2世は1700年11月1日に突如崩御したが、遺言書にはアンジュー公に位を譲る旨が記されていた。これはスペイン宮廷にフランス支持者を増やしたルイ14世の画策によるものであったというが、カルロス2世は一括相続して戦争が起こる場合を見越して、フランスが諸国に対抗出来るだろうとの期待から選んだものであった。ここにおいて、アンジュー公がスペイン王フェリペ5世として即位した。
スペインを事実上獲得したルイ14世は、スペイン王位継承の障害であったフェリペ5世のフランス王位継承権を手放さないことを表明、オランダへの牽制としてスペイン領ネーデルランド(現ベルギー)の総督でフェリペ5世の母方の叔父でもあるバイエルン選帝侯マクシミリアン2世エマヌエルの承認を得てフランス軍を駐屯させ、スペインの貿易特権をフランスの貿易会社に譲らせた上、イングランド王位僭称者ジェームズ・フランシス・エドワード・ステュアートを支持するジャコバイトの支援も行った。これら一連の行動はイギリスを戦争へと傾かせ、オランダへ渡ったウィリアム3世はハーグでフランスの勢力拡大を恐れるオーストリア、オランダと対フランス大同盟を結び、フェリペ5世の即位に反対してフランス、スペインに宣戦布告した〔林、P95 - P101、友清、P11 - P26、P47 - P56、マッケイ、P61 - P67。〕。
最初はスペインの辺境を我が物にせんとするフランスと、それを押しとどめようとするヨーロッパ各国との戦争の様相であったが、次第にスペインの国内事情がからみ『スペインの内戦』の一面を持つようになった。スペイン国内が一丸となってフェリペ5世即位を支持したわけではなく、政治の中心であるカスティーリャに対し、古くから君主との協約主義を掲げ自治の発達したカタルーニャ及びアラゴンバレンシアは中央政権に対抗心を持っていたのである。ナバラバスクはブルボン家支持を表明した。
なお、戦争が始まる前にイングランドでは1701年に王位継承法が制定され、ステュアート朝断絶後はドイツ神聖ローマ帝国)の領邦選帝侯の一員でもあるハノーファー公国から新たに国王を迎え入れることを決定した。同じく選帝侯のブランデンブルク辺境伯プロイセン公フリードリヒ3世も、戦争支援の約束と引き換えにレオポルト1世から王号を許され「プロイセンの王」フリードリヒ1世に即位、プロイセン王国が成立した。ハノーファーとプロイセンは戦後に列強の一員となり、ヨーロッパの勢力を変えることになる〔友清、P30 - P39。〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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