翻訳と辞書
Words near each other
・ スペンサー・ディヴィス・グループ
・ スペンサー・デイヴィス・グループ
・ スペンサー・トリート・クラーク
・ スペンサー・トレイシー
・ スペンサー・トレーシー
・ スペンサー・ハウズ
・ スペンサー・パットン
・ スペンサー・パーシバル
・ スペンサー・パーシヴァル
・ スペンサー・フィッシャー
スペンサー・フラトン・ベアード
・ スペンサー・ブレスリン
・ スペンサー・ヘイウッド
・ スペンサー・ペイシンガー
・ スペンサー・ホレーショ・ウォルポール
・ スペンサー・ホース
・ スペンサー・ホーズ
・ スペンサー・ロック
・ スペンサー・ワート
・ スペンサー伯爵


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

スペンサー・フラトン・ベアード : ミニ英和和英辞書
スペンサー・フラトン・ベアード[ちょうおん]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

スペンサー・フラトン・ベアード : ウィキペディア日本語版
スペンサー・フラトン・ベアード[ちょうおん]

スペンサー・フラトン・ベアード(Spencer Fullerton Baird、1823年2月3日 - 1887年8月19日)はアメリカ合衆国生物学者である。スミソニアン協会の最初の学芸員として働き、1850年に6000だったスミソニアン博物館の標本を、彼の没した時点で200万まで増やした。
==生涯==
ペンシルバニアレディングで生まれた。愛鳥家で、博物画家、ジョン・ジェームズ・オーデュボンの愛読者であった兄や、スペンサーを自然の中へ伴い、一緒に園芸を行った父親の影響で自然愛好家になった。1840年にペンシルバニアのディキンソン・カレッジを卒業し、医学を学ぶためにニューヨークのコロンビア大学に進んだ。2年後にペンシルバニアのカーライルに戻り、1845からディキンソン・カレッジで教え始めた。この間、動植物の採集旅行を行い、他の博物学コレクターと標本の交換を行った。1848年にスミソニアン協会のペンシルバニアのボーンケーブの調査と博物学的調査に雇われた。1849年に標本を集め、梱包して運ぶごとに$75の報酬が払われることになった。この時期に協会事務局長のジョセフ・ヘンリーと出会い、親しくなり、協力者となった。1840年代にベアードはアメリカ合衆国に北西部、中央部の各地をしばしば歩いて旅し、1842年だけでも3000kmを旅した。
1850年に、スミソニアン協会の最初の学芸員として雇われ、アメリカ科学振興協会の常任事務局員(Permanent Secretary)になった。アメリカ科学振興協会は3年間務めた。ベイアードの赴任時には2台の鉄道貨車を借りて自らの収集品を運んだ。スミソニアン協会の標本収集計画を立案し、収集家と収集品の交換をするネットワークをつくり、陸海軍に依頼してミシシッピ川の西部や、メキシコ湾から植物標本を集めた。重複した標本は、他の博物館で重複した標本と交換することで、収集品を増やした。
ジョセフ・ヘンリーのもとで、副事務局長となり、出版と各国の会誌の流通を促進し、各国の研究者に便宜をもたらした。動物学者のウィリアム・スティンプソンやロバート・ケニコットなどの研究を援助した。1856年に、ディキンソン・カレッジから博士号を受けた。
休暇はマサチューセッツの海岸の町、ウッズ・ホールで過ごし、そこで魚類学に興味を持った。1871年に米国魚類委員会の委員長に任命され、水産資源の調査に貢献し、ウッズ・ホールを海洋生物研究の中心地に育てた。1872年にアメリカ国立博物館のマネージャーとなった。
ジョセフ・ヘンリーが没した後、スミソニアン協会の副事務局長となった。1883年にアメリカ鳥学会の創立メンバーとなるが、多忙のために設立総会には参加できなかった。1887年に体調を崩して、スミソニアン協会を離れ、サミュエル・ラングレーが業務を代行した。1887年8月に没した。




抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「スペンサー・フラトン・ベアード」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.