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イズミル (İzmir) は、エーゲ海に面するトルコの都市。古くはスミュルナ(Smyrna, スミルナとも。ギリシア語で)と呼ばれた。イスタンブルに次いでトルコ第2の規模の港湾施設を持つ港湾都市で、人口ではイスタンブル、アンカラに次ぐトルコ第3の都市である。2012年の人口はおよそ400万人。イズミル県の県都。北大西洋条約機構(NATO)の司令部が置かれている。その美しさは「エーゲ海の真珠」と称えられる。付近にはエフェソス、ベルガマ(ペルガモン)、などの古代遺跡もあり、多くの観光客を集める。2005年のユニバーシアード夏季大会の開催地。 2015年の国際博覧会の候補地となっていたが、投票でイタリアのミラノに敗れた。 == 歴史 == ヘロドトスによれば、紀元前1000年ごろにアイオリス人によって建設され、その後、イオニア人たちの手に渡り、文化的・商業的中心地として大きく発展した。イオニア同盟の主要な都市の一つとなる。ホメロスが暮らしていたのもここであったと言われる。リュディアの攻撃(紀元前600年ごろ)によって破壊された。その後、リュディアやアケメネス朝、アレクサンドロス3世(大王)によって支配された。紀元前1世紀よりローマ帝国、4世紀以降は東ローマ帝国の支配下で繁栄を謳歌する。 1076年、スミュルナは古代ギリシア都市のクラゾメナイやフォチャや多数のエーゲ海の島々とともに、セルジューク朝の指揮官によって占領された。これが初めてのトルコ人による占領であった。チャカ・ベイはスミュルナを海軍基地として使用した。1102年に彼が亡くなると、スミュルナや周辺地域は、東ローマ帝国によって再び占領された。コンスタンティノポリスが1204年の第4回十字軍によって征服され、港町スミュルナは聖ヨハネ騎士団によって占領された。しかしニカイア帝国は、ジェノヴァ共和国が引き続きスミュルナの城を支配するなど多くの譲歩を必要としたが、スミュルナをその後すぐに奪還した。 14世紀中ばからはオスマン領に浮かぶ飛び地となり、1402年、ティムール朝に占領された後、1415年、オスマン帝国に占領される。 17世紀から19世紀にかけては、さまざまな出自の商人たちが集まり、国際商業都市として栄えた。とりわけ、アルメニア商人はイランの絹をヨーロッパの商人に供給して利益をあげた。 19世紀になると、オスマン帝国の欧米に対する経済的従属が深まった。港湾部がイギリス資本によって整備され、1866年にはイズミルからカサバ、イズミルとアイドゥンを結ぶ鉄道が、同様にイギリス資本に支えられ開通した。これによってイズミルは、列強の工業製品を受け入れつつ、農作物を国際市場へと供給する拠点となった。列強による鉄道敷設はさらに進められ、1888年にイズミルとアンカラを結ぶ鉄道の敷設権をドイツが獲得し、1893年に開通させた。 第一次世界大戦においてオスマン帝国が協商国側に降伏すると、1919年5月15日ギリシア軍はアナトリアに上陸し、イズミルを含む一帯を占領した。その後、1920年8月のセーヴル条約で、ギリシアによるイズミル地方の領有が期限つきで認められたが、1922年9月にはムスタファ・ケマル・アタテュルクの率いたトルコ軍が奪還、その前後に起こった火災でイズミルは全焼した。1923年7月のローザンヌ条約によってトルコの主権が回復された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「イズミル」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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