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"スモーキー"ジョー・ウッド("Smoky" Joe Wood、1889年10月25日 - 1985年7月27日)は、主に1910~1920年代に活躍したアメリカメジャーリーグの野球選手。ポジションは投手、後に外野手。ミズーリ州カンザスシティ生まれ。右投げ右打ち。1910年代にレッドソックスに在籍し、速すぎて見えないほどの剛速球から"Smoky"の異名をとったが、怪我のため投手としては短命に終わった。 ==経歴== 生まれた時の名前は"Howard Ellsworth"といった。性別を偽って女子野球チームで活動したのち(男であることがばれて追放になったという)、1908年、18歳で生まれ故郷カンザスシティのマイナー球団からボストン・レッドソックスに昇格、6試合に登板し1勝1敗の成績を残す。この1勝は完封での勝利だった。ウッドは剛速球を武器にすぐに頭角を現し、2年目の1909年には10代で二桁の11勝を達成、3年目の1910年には12勝13敗ながら1.68の防御率を記録した。 1911年にはノーヒットノーランを含む23勝と、リーグ3位の2.02の防御率を記録、1912年シーズンには38試合に先発し34勝5敗という圧倒的な勝率と、2点台を切る(1.91)防御率を残す。同年のワールドシリーズではニューヨーク・ジャイアンツを相手に4試合に登板して3勝を挙げ、レッドソックスにワールドシリーズ制覇をもたらした。 1913年春にウッドはゴロを処理中にぬれた芝生で足を滑らせて転倒し、親指を骨折してしまう怪我を負ったが、充分に完治しないまま痛みをこらえて投球を続けていた。かつての剛速球はかなり球速が落ちたそうだが、それでも1913年には11勝5敗、また1915年シーズンには15勝5敗の成績を残し、更にはこの年リーグ最高の1.49の防御率も記録した。しかしついに痛みに耐えられなくなったウッドはこの年を最後に一旦現役を退くことになる。 1917年にウッドはレッドソックスからインディアンズに金銭で移籍し、インディアンズでは外野手として出場した。1918年には5本の本塁打を含む66打点と三割近い打率を残すなど打撃面でも他の野手に引けをとらない活躍をし、以後1922年、32歳までインディアンズに在籍した。現役最後となった1922年には8本のホームランを含む150安打、92打点、.297の打率を記録している。同年エール大学のヘッドコーチの職につき野球選手を引退、エール大学のコーチは1942年までつとめた。息子のジョー・フランク・ウッドは、1944年にレッドソックスからメジャーにデビューし、同年3試合に出場している。1985年にコネチカット州で死去。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「スモーキー・ジョー・ウッド」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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