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===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
スライマーン・イブン・クタルミシュ(? - 1086年6月)は、ルーム・セルジューク朝の始祖(在位:1077年 - 1086年6月)。 == 生涯 == セルジューク朝の始祖であるトゥグリル・ベグの父・ミーカーイールの兄弟であるアルスラーン・イスラーイール・イブン・セルジュークの息子クタルミシュ・イブン・アルスラーン・イスラーイールが父である。1063年にトゥグリル・ベグが子孫を残さずに病死すると、後継者の地位を得るべくクタルミシュ・イブン・アルスラーン・イスラーイールは跡を継いだアルプ・アルスラーンと敵対するも殺害された。その際、スライマーンは連座で罪を問われなかったが、セルジューク家の王族とは認められなくなった。 アルプ・アルスラーンの跡を継いだマリク・シャーはアナトリア方面のトゥルクマーン統制のため、スライマーンを送り込んだ。スライマーンは1074年あるいは1075年に東ローマ帝国領であったニカエア(現在のイズニク)を占領した。その後は東方に進出してマリク・シャーと対立。1084年12月にはシリア北部のアンティオキアまで征服するなど、宗主のマリクを完全に無視した独立行動をとった。 だがシリアの征服はかえってマリクやその実弟でシリア・セルジューク朝を構成していたトゥトゥシュの怒りを招いた。1086年6月、アンティオキア東方にあるアレッポの支配権をめぐってスライマーンはトゥトゥシュと戦い、敗死した。 死後、息子のクルチ・アルスラーン1世はマリクに捕らえられてルーム・セルジューク朝は一旦断絶し、6年後のマリクの死去まで復権を待つことになった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「スライマーン・イブン・クタルミシュ」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Suleiman ibn Qutulmish 」があります。 スポンサード リンク
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