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スラバヤ沖海戦 : ミニ英和和英辞書
スラバヤ沖海戦[すらばやおきかいせん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [おき]
 【名詞】 1. open sea 
海戦 : [かいせん]
 【名詞】 1. naval battle 
: [いくさ]
 【名詞】 1. war 2. battle 3. campaign 4. fight 

スラバヤ沖海戦 : ウィキペディア日本語版
スラバヤ沖海戦[すらばやおきかいせん]

スラバヤ沖海戦(スラバヤおきかいせん)は、太平洋戦争中の1942年(昭和17年)2月27日から3月1日にかけて、インドネシアスラバヤ沖で日本軍ジャワ島攻略部隊を連合国軍が迎撃した海戦である〔#戦藻録(1968)88-89頁〕。日本海軍が連合軍の艦隊を撃破し、これにより日本軍のジャワ島上陸・占領が進むこととなった。
== 海戦の背景 ==
太平洋戦争の勃発と共に、日本海軍はマレー沖海戦イギリス東洋艦隊の主力戦艦2隻(プリンス・オブ・ウェールズ、レパルス)を撃沈し、東南アジア方面の最大の脅威を排除した。日本軍はフィリピンを占領すると、つづいて資源地帯であるオランダ領インドネシア占領を目標とし、三つの進撃路を準備した。アジア大陸沿いにシンガポールを目指すルートと、ボルネオ島を経由して南進しスマトラ島へ至るルート、さらにフィリピンダバオからスラウェシ島両岸のマカッサル海峡モルッカ海峡を経て、最終的にジャワ島を占領するルートである〔#ニミッツの太平洋海戦史pp.31-32『日本軍、蘭印に進撃す』〕。
1942年(昭和17年)2月になると、日本軍はジャワ島占領を目的として行動を開始。陸軍の上陸船団とその護衛艦隊として第二水雷戦隊、第四水雷戦隊、第五戦隊、第四航空戦隊、第十一航空戦隊等を派遣する。日本船団は東西に分かれて進撃し、東部ジャワ攻略部隊として第48師団坂口支隊が輸送船約40隻に分乗していた〔#戦史叢書26pp.441-444『東部ジャワ攻略船団の進航』〕。これを護衛する第一護衛隊(指揮官西村祥治四水戦司令官:旗艦那珂、駆逐艦8、掃海艇5、駆潜艇5、他3)も含めると、約60隻に及ぶ大規模な船団であった〔。これらはスラバヤ西方のクラガン海岸を上陸目標としてマカッサル海峡を南下、ジャワ海を航行していた。バリ島攻略作戦やチモール攻略作戦に従事していた主隊(足柄、山風、江風)、東方支援隊(那智、羽黒、雷、曙)、第二護衛隊(第二水雷戦隊、第7駆逐隊第1小隊《潮、漣》)、「妙高」等も漸次輸送船団護衛に加わる〔。ベトナムのサンジャックに待機中だった第四航空戦隊(司令官角田覚治少将:空母龍驤)と第七戦隊(司令官栗田健男少将:最上型重巡洋艦4隻《熊野、鈴谷、三隈、最上》)は、27日朝になってから南方部隊司令官近藤信竹第二艦隊司令長官より蘭印部隊編入とバタビア方面作戦協力を命じられる〔#戦史叢書26pp.440-441『第四航空戦隊の進出、間に合わず』〕。「龍驤」は27日午後に急遽出動したが、28日までの戦闘には間に合わなかった〔。
対する連合国軍は日本軍の進撃を阻止すべくABDA司令部を設置し、ジャワやオーストラリアの防衛のため艦隊を再編した。トーマス・C・ハート(米海軍大将・アジア艦隊司令長官)はカレル・ドールマン少将を司令長官とするABDA艦隊を編成する〔#連合国艦隊壊滅すp.141〕。しかし、この艦隊は急遽編成されたアメリカAmerican)・イギリスBritish)・オランダ(Dutch)・オーストラリアAustralian)の各国で構成された寄せ集めであった。合同しての訓練は一度も行ったことがない上に、連合軍の中で唯一の非英語圏であるオランダのドールマン少将は英語を解さなかった。
母国をナチス・ドイツに占領されたオランダにとって、極東の植民地は最後の拠点であった〔#連合国艦隊壊滅すp.152〕。オランダ亡命政府はアメリカ軍が極東の防衛に真剣でないと判断し、アメリカ人のハート大将を解任し、オランダ人の中将(東インド諸島出身)を司令官とする人事を連合軍に行わせている〔#連合国艦隊壊滅すp.153〕。しかし、既にシンガポールの戦いシンガポールは陥落〔#ニミッツの太平洋海戦史pp.35-36〕。大規模海軍基地を失ったことで、連合軍は損傷艦の修理や補給も難しい状態になっていた〔#連合国艦隊壊滅すp.148〕。その上、ジャワ沖海戦バリ島沖海戦などの小規模海戦で連合軍に損傷艦が続出する〔#連合国艦隊壊滅すp.175〕。たとえば重巡「ヒューストン」は損傷により前部砲塔6門しか使用できなかった〔#戦史叢書26p.482〕。さらに連合軍にとっての痛撃は、オーストラリアからジャワ島に至る戦闘機中継基地ティモール島を占領され、くわえて2月19日の南雲機動部隊のポートダーウィン空襲により北部豪州主要港のダーウィンが大打撃を受け、ジャワとオーストラリアの連絡線が遮断された事であった〔。
この時点でABDA連合は既に現有戦力ではジャワの防衛は不可能として撤退を始めていた。2月21日、アーチボルド・ウェーヴェル大将はウィンストン・チャーチル英国首相に、ジャワの防衛が絶望的であると報告〔#連合国艦隊壊滅すp.173〕。2月25日の時点でウェーヴェル将軍はジャワを去った〔#ニミッツの太平洋海戦史pp.36-39『ジャヴァ海海戦』〕。ジャワにはドールマン少将指揮の艦隊の他はアメリカ、オーストラリアの少数の航空機が残されているのみで、ABDA司令部の主だったメンバーは既にセイロンやオーストラリアへ脱出しており、残っているのはオランダ軍だけであった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「スラバヤ沖海戦」の詳細全文を読む




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