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スルターン・ハーシム・アフマド・アッ=ターイー : ミニ英和和英辞書
スルターン・ハーシム・アフマド・アッ=ターイー[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

スルターン・ハーシム・アフマド・アッ=ターイー : ウィキペディア日本語版
スルターン・ハーシム・アフマド・アッ=ターイー[ちょうおん]

スルターン・ハーシム・アフマド・アル=ジュブーリー・アッ=ターイー(、Sultan Hashim Ahmad al-Juburi al-Tai 1944年ー)は、イラクの元国防大臣軍人陸軍中将サッダーム・フセイン元大統領の一族の人間では無いが、スルターン・ハーシムの娘がクサイと結婚しており、サッダームとは婚戚関係にある。 日本の報道等では「ジャブリ国防相」と表記された。
== プロフィール ==
スルターン・ハーシムは、1944年にイラク北部の都市モースル近郊のシルガートに生まれる。ベジャート(begat)一族の出身で、ベジャート一族はアルブ・ナースィル一族とも呼ばれ、ティクリート一帯で権威を誇った〔「フセイン・イラク政権の支配構造」酒井啓子著 112頁 〕。サッダームもアルブ・ナースィルの出身である。 
1965年に陸軍士官学校を卒業、1975年に国家安全保障研究所の講師として働いた後、国防省傘下の軍事情報局(Mudiriyah Al-Istikhbarat Al-Askriah Al-Ammah)の職員となる。
1980年イラン・イラク戦争が開戦すると、スルターン・ハーシムはイラク陸軍第1軍団長として従軍し、勇猛な軍人の一人として名を馳せる。このためイラク国民からも対イラン戦争の英雄として広く尊敬された。〔http://oilgas-info.jogmec.go.jp/report_txt.pl?id=432〕 1988年、サッダーム政権は、北部のクルディスタン地方で活発化していたクルド人ゲリラによる攻勢を止めるため、を実施。スルターン・ハーシムは同作戦の指令参謀に任命される。 この作戦では、多くのクルド人が化学兵器を伴う無差別攻撃で虐殺された。88年3月12日、スルターン・ハーシムはスレイマニヤにおいて、サッダームと会見している。その3日後にハラブジャ事件が起きており、ここで何らかの対応が話し合われたと見られている。
また、スルターン・ハーシムは88年3月19日付のサッダームへの書筒で、アンファール作戦の経過を報告している。アンファール作戦は3月中に成功し、終了した。
これらの功績が認められ、スルターン・ハーシムは1990年に第三参謀次長(作戦担当)へと昇進し、湾岸戦争の停戦交渉においてアメリカ軍のノーマン・シュワルツコフ大将と会談を行ったイラク側使節の団長を務めた。停戦交渉では、イラク軍の戦闘停止について、多国籍軍が攻撃を停止しないのなら、停戦には応じられないと述べた。またシュワルツコフに軍用ヘリコプターの使用許可を求め、了承された。後に、この軍用ヘリの使用が許可されたことで、シーア派とクルド人住民の反政府蜂起は素早く鎮圧された。
停戦合意の際、スルターン・ハーシムはシュワルツコフに、『アラブ人である私は、胸に憎しみを抱き続けない』と述べたとされる。 サッダームは、このスルターン・ハーシムの交渉手腕を高く評価し、彼が『イラクの名誉を守った』と賞賛した。
1995年3月、スルターン・ハーシムはイラク軍参謀総長に、7月には、引責辞任したアリー・ハサン・アル=マジードに代わって国防大臣を兼務した。イラク戦争が迫る2003年には中央軍管区副司令官に任命され、首都防衛の副責任者となった。戦争直前の2003年2月に、スルターン・ハーシムは軍事会議の席でサッダームに、米軍と直接戦っても勝つ見込みは無いと発言し、一定期間、自宅軟禁措置に置かれたとの報道がなされた。
イラク戦争が始まると、度々外国記者団の前でイラク側の戦況会見を開き、爆撃跡を視察したり、病院を訪れて米軍による空襲の被害者と会話を交わすなどしたが、03年4月9日に政権が崩壊するとモースルに逃亡した。米軍が発表した「イラクのお尋ね者トランプカード」にもスルターン・ハーシムも含まれていた。ニューヨーク・タイムズによると、スルターン・ハーシムは2003年のイラク戦争時、イラク軍各部隊に侵攻してくるアメリカ軍に対する抵抗を控えるよう指示していたという。「フォーリン・アフェアーズ」誌によると、戦後、スルターン・ハーシムは米軍の取調べに対して、『アメリカが戦争を始めれば、進撃を阻止することは不可能と思っていた』と述べている。〔論座 2006年6月号 「旧イラク軍高官たちが証言するサダム・フセインの妄想」92頁 〕
03年9月19日、スルターン・ハーシムはクルディスタン民主党(PDK)系の人権団体の仲介により、モースルにおいて、現地に駐留する第101空挺師団を指揮するデービッド・ペトレイアス将軍の下に家族と共に投降した。
投降前、ペトレイアスはスルターン・ハーシムに手紙を送り、「将軍の名誉のために」米軍に拘束されるのでは無く、投降するよう訴えた。また、手紙には米軍が尊厳を持って遇すると書かれていたという。その後、スルターン・ハーシムは米軍側と投降交渉を行い、自分を指名手配リストから外し、尋問の後に解放することを条件に投降すると決めたと、スルターン・ハーシムの息子、アフマドは語っている。アフマドによれば、米軍による尋問は2~3週間ほどで終わり、その後は自由にするとペトレイアスは約束したという。しかし、米軍側は後になってこのような約束はしていないと否定する見解を発表している〔http://www.nytimes.com/2007/10/27/world/middleeast/27sultan.html〕。
03年11月、米軍による尋問が終わり、スルターン・ハーシムは解放された。彼はターイー部族の保護下、モースルの自宅で暮らしていた。
当時、イラクを統治していた連合国暫定当局もスルターン・ハーシムが旧イラク軍将校に強い影響力があることから、新生イラクの大統領候補にとまで考えたが、彼はその申し出を断っている。
しかし、2004年に発足したイラク暫定政権は、スルターン・ハーシムを旧政権下で起きた虐殺行為の責任者として起訴することを決め、彼は逮捕された。投降する際に米軍と交わした「戦犯に問わない」という合意は反故にされた形であった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「スルターン・ハーシム・アフマド・アッ=ターイー」の詳細全文を読む




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